8月6日(日)
昨夜は12時近くまで詩人の女性達とお酒を楽しく飲んだのであるが、その中の一人、北爪満喜さんは、わたしにデジカメを撮る楽しさを教えてくれた人である。はじめて詩集の出版のためにふらんす堂にみえたとき、カメラを持って来られていつでもどんなときでもカメラを手放さず、日常のくつろいでいる時間でも撮りたいものをとりつづけているということであった。写真を撮るということにほとんど関心のなかった私は、カメラが肉体の一部となっているその北爪さんの日々が面白く、わたしもマネッコをしてみようと思ったのだった。現実は子供の趣味程度で(こういう書き方は子供に失礼ですね)いまもってたいへん中途半端な関わり方ではあるが、写真をとることの楽しさを覚えた。俳人の友人である石田郷子さんや川島葵さんは、武蔵野の自然を写真に撮りつづけてきていて、私はその写真もたいへん好きではあるが、詩人の北爪さんの写真の撮り方はまたまったく違うものであるのが面白い。自然を諷詠する俳人と現代詩を書いている人間の意識の違いということもあるのかもしれないが、昨夜は、北爪さんにその写真論をゆっくり伺った。「映像は自分自身への破壊である」と北爪さんは言う。私=写真ではなく、自分の慣れしたしんだ回路をこわすことであると。デジカメの面白さは一瞬の現象をとらえることであるとのこと。だから、一つの場面やことがらについて何枚も何枚も写真を撮るのだという。意味や思い入れを排除して、ただひたすら撮る。そうして撮ったものを全部保存しておくのだそうだ。ピントがぼけたものでさえも。保存されたあまたの映像から思いもかけぬものが生まれてくるという。その思いもかけぬものに出会うためにひたすら撮りつづけるという。その話を聞いてわたしは思わず「それって俳句の作句方法でいうところの多捨多作ですね。沢山作って沢山捨てることによって思いもかけぬ作品に出会うことがあるって言われます」と言うと、「俳句にそういう作り方があるんですか」と北爪さん。「ええ、俳句のひとつの伝統的な作り方です。俳人の方によっては、ひとつの季題で50句以上を1時間で作る方もいます。」それを聞いた北爪さんは「そいうことを聞くと、俳句をつくるって凄いことだとおもいますね」と感じ入ったように言うのだった。
映像に触発されながら現代詩を書くという試みをしている北爪満喜さんと、俳句の多捨多作がおもわぬところで結びついた面白い一夜であった。
写真は、矢川緑地の青蔦。これはたった2枚しか撮りませんでした。北爪さん。