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9月24日(日) 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ) 旧暦8月5日
今朝の新宿の空。 今朝の太極拳でのこと。 最後に立禅(りつぜん)をするのだが、そのとき 「足の裏が大地とつながっているように」と橋口澄子先生が言う。 「いいこと、皆さん、足の裏というのは、単なる足の裏側のことではありません。くるぶしから下全体を言います」と更に橋口先生。 (くるぶしから下全体か、、、、う~む、むずかしいぞ) 太極拳はやればやるほど、奥が深いのである。 先日このブログでも触れたが、仙川商店街にある本屋さん「書原」が今日で閉店になる。 ほんとうに残念である。 昨日と今日とわたしは「書原」に行って、しばらくの時間を過ごしかなり沢山の本を買い込んでしまった。 普通の本屋さんでは置いてないような本がいろいろとある。思想関係、宗教関係など、あるいは文庫本などなどそれは多彩である。こういう本屋さんはなかなかないのである。 ふらんす堂の本も詩歌の棚にすこし置いて貰っていたのである。 有難いことだった。 が、 閉店である。。。 今日買った本のうちの一冊に新潮社の「とんぼの本」シリーズのものがあった。 この「とんぼの本」シリーズは写真でや絵でみせる面白い企画本だったが、いまは揃えている書店がほとんどない。 これは、メッケモンである。 谷口慎也さんが代表をつとめる短詩型文学誌「連衆」(2017・9)で、小津夜景さんのことがとりあげられている。谷口慎也さんによる「ことの葉めぐり」という最初のページである。紹介したい。 まだ踏まぬ切手の国や種をまく 小津夜景 作者は1973年、北海道生まれ。第一句集『フラワーズ・カンフー』で今年「田中裕明賞」を、その前年には「攝津幸彦賞」(準賞)を受賞。突然ネット通信で俳句・評論を発表し始めてからわずか数年後のことである。結社誌が形成するギルド的な修練の〈場〉を持たず、まさにネットの中から一挙に登場した人。この鮮烈なデビューは多くの若者の共感を呼んでいるが、先ず何よりもそれは、この句集が俳句という単一の領域を超越しつつ、作者の文芸観・芸術観を柔軟に取り込みながら、なおかつそれが多様な方向性を持ちながら、まさに「俳句」として成立している処にある。 だが誰もが、いきなりこういう離れ業が出来るわけではない。かなりの読書家というかの女には、創作の前提としての「先行するテクスト」(pre-text)がある。いわばそれは文芸的・芸術的滋養というものであるが、またそれとの相関性によって成立する句集中の連作や群作は、まさに「舌頭に千転」すればするほど、俳句という定型文学がいかに音韻・音調の力に支えられているかがよくわかる。他に〈包帯をほどき焼け野のそらもやう〉〈月の矢をいだきてまゐる通信使〉〈啼くによき離宮あれかし鶴姉妹〉〈いつまでも屍体だりんと鳴く虫だ〉〈火の騒ぎありて華やぐオラトリオ〉〈夢殿やくらげの脚をくしけづる〉ー何処か攝津幸彦を思わせるが、小津の作品群には、文体の意味性が、まるで連歌のように、そっくりそのまま詩的な思惟性として明確に提示されているのだ。 おなじく「連衆」の書評欄で、金子敦句集『音符』が谷口慎也さんによって評されている。抜粋して紹介したい。 著者は現在「出航」所属。2012年~2016年までの作品を所収。俳句的なお付き合いもすでに十余年に及ぶが、その間私は、作品のみならず、その俳人としての態度を一度も疑ったことがない。要するに彼の言葉を前面的に受け入れられるのである。 句集三句目に〈初夢のどこでもドアを開きけり〉というゆかいな句があるが、敦さんはその〈ドア〉を日常のど真ん中で開けてくれる。そこは私たちが普段見落としていた場所であり、そこを開けられると断然世界が新鮮になるー〈ボールペンの先端は球鳥渡る〉〈本ひらくやに牡丹の崩れけり〉〈方眼紙にみづいろの罫小鳥来〉〈砲丸が地球にどんと着いて夏〉 (略) 誌面の都合でその特質をいちいち挙げるのは叶わないが、どこでもドアの新鮮さに、うっすらとした陰影が付き纏っているのも魅力である。〈屋上に小さき鳥居しぐれ来る〉〈ひとすぢの稾の突つ立つ夏帽子〉〈春惜しむ画鋲を深く刺し直し〉このうっすらとした陰影も、他の句に混じるとき、それは消せない刻印となってくる。ひとことで言えば、彼はある種の「清明な抒情体」であり、その陰影もまた美しい。 さっ、帰ろう。 もう一度、 「書原」に寄って別れを惜しむことにしようかなあ。
by fragie777
| 2017-09-24 19:03
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