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8月20日(日) 旧暦6月29日
長崎・大浦天主堂。 この教会を訪れたのは三度目となる。 学生時代に、家族旅行で、そして今度。 現存する日本最古の教会。洋風建築では唯一の国宝とある。 フランスのパリ外国宣教会が創建したカトリック教会。 長崎港を望む。 今日は一冊の本を紹介したい。 花田清輝、島尾敏雄、吉本隆明など多くの日本の戦後の表現者たちの本を手がけ、いまなお現役の編集者である松本昌次(まつもと・まさつぐ)氏の著書である。 1927年生まれの氏は、今年で90歳。 ご丁寧な手紙とともに一冊の本が送られてきた。 2016年の7月に刊行されたもの。 帯に記されている名前は、松本さんがその著書を手がけて世に送りだした著者や、松本さんが思想的影響をうけた、あるいはその作品に感銘した人たちである。 わたしが松本昌次さんを存じ上げたのは、ふらんす堂をはじめて間もないころ、当時取次店トーハンの営業部長をしておられ今は故人となられた稲葉通雄(作家名=稲葉有)さんを通してである。稲葉さんの親友であった松本さんを編集者の先輩として紹介して下さったのだ。 松本さんは、それまで多くの仕事をされ業績を残された版元の未来社を辞められて、「影書房」という出版社を立ち上げて数年後のことである。すでに編集者として立派な仕事をして来られ、50代半ばからの再出発であった。気骨と時代への批判的視座をもった戦う編集者、時として怒りの言葉が爆発する、しかし、多くの作家や思想家の信頼を十分に勝ち得てきた方であろう、そんな印象を持ったのだった。 傍らにはお優しい奥さまの微笑みがいつもあった。 稲葉通雄さんを通して何度かお会いすることもあったのだが、稲葉さんも亡くなりすっかりお会いすることもなくなってしまっていた。それでも「ふらんす堂通信」はお送りし続けていた。 お手紙には、「ふらんす堂通信」へのお礼と一昨年「影書房」を後継者にゆずられ、62年余の編集者の仕事を退かれたこと、いまはフリーの立場で本づくりに力を貸されているということなどが几帳面な文字で書かれてあった。 同封されていたのが本著である。そこに奥さまを東日本大震災が起こった年の9月に亡くされたことが書かれていて呆然とした。 日曜日の今日、わたしはこの本を手に取ってようやく目を通しはじめた。 いろいろと興味ふかいことが書かれているのだが、二つのことを文章より紹介しておきたい。 少し長くなるので、関心のないかたは、どうぞよろしいように。 わたしは司馬遼太郎が結構好きでよく読むのだが、松本さんはその司馬遼太郎を批判されている。 その箇所を紹介したい。「松本清張」の項目の1997年に書かれたものである。 戦後における”国民文学”的規模での人気作家といえば、なんといっても松本清張と司馬遼太郎が双璧であろう。ともにすでに世を去ったが、その人気はいまだ衰えをみせない。特に後者は、ある時流にも乗って、”大絶賛”の合唱にとり巻かれているかのようだ。しかし、わたしは、”清張好き・遼太郎嫌い”を標榜して久しい。いや、清張と遼太郎は、その作風において、ともに天を頂けない間柄というべきではなかろうか。 (略) そんなさなか、李成市、李孝徳・成田龍一氏による鼎談「司馬遼太郎をめぐって」(「現代思想」1997年・青土社)を読んで深い共感を覚えた。これはいま世上を揺るがしている「教科書問題」特集企画の一つだが、日本近代の黎明期を肯定的に語る余り、朝鮮・中国をアジア的停滞性のサンプルとして貶める遼太郎が徹底的に批判されている。それゆえに遼太郎は、日本の植民地支配・侵略戦争の歴史的罪悪を、むしろ軽減・回避しようとすらしているのである。”自由主義史観”と遼太郎の”英雄史観”が通底する根拠が具体的な作品に即して論じられていて納得できる。 それに対し清張は、近代日本の暗部、負の歴史から、生涯目をそらさなかった。清張の短編小説の多くには、権威や世俗に背き、成功を断念し、個人的不幸を背負った人びとへの強い共感がある。しかし、遼太郎は、高度成長の波に乗って、楽天的に、日本近代の英雄たち(例えば坂本龍馬など)に、日本人の肯定的像を結ぼうとしたのである。この”司馬史観”から切り捨てられ踏みにじられた人びとを見落として、これからもわたしは遼太郎とは馴染むことはできないだろう。なぜなら、日本近代におけるアジア諸国への植民地支配・侵略戦争の歴史的刻印を決して消去するわけにはいかないからである。同誌掲載の田村紀之・李孝徳両氏の対談も”司馬史観”として出色である。(略) このところ”自由主義史観”なるものに同調する出版物が書店の店頭で目立つおぞましい風景のなかで、この一冊は再読・三読に値するものといえよう。 まことに松本さんらしい一文である。 司馬遼太郎の「英雄主義(?)」についてはわたしの周りでも口にする人間がいないわけではないが、しかしいちがいにそう弾劾できないものがあって、司馬遼太郎はやっぱり好きである。 松本さんに面前で責められたらタジタジとなってしまうかもしれないけど。。。 本著を読んでいて、もう一つ発見があった。 編集者鷲尾賢也さんが本著の「あとがき」に登場するのである。 鷲尾賢也さんは、歌人・小高賢さんとしても知られていたが、残念なことに2014年に急逝をされている。 編集者勤務のときにわたしは存じ上げ、ふらんす堂をはじめた頃にいろいろと相談にのっていただいた方である。 「あとがき」の一部を紹介したい。 思いかえせば、編集者として未来社に入社したのが1953年4月以来、30年1ヶ月。83年退社。翌6月、米田卓史・秋山順子さん(わたしはこのお二方も存じあげている)と共に影書房を創業、以来、32年2ヶ月。あっという間の62年3ヶ月の編集者人生だった。齢も88を数えてしまった。 この間のことについては、主として未来社時代を中心に、『わたしの戦後出版史』(トランスビュー2008年8月刊)で、鷲尾賢也、上野明雄さんのお二人を”聞き手”として語ったりした。当時トランスビューの社長だった中嶋廣さんの激励・編集によるものだった。(鷲尾さんは1昨年の2月10日、急逝した。享年69。無念というほかなかった。2005年からの二年間、当時あった朝日新聞社の月刊誌『論座』連載のため、ほぼ毎月1回、深夜に及んだ楽しくも遠慮会釈のない鷲尾さんを中心とした対論を忘れることはできない。) (略) 鷲尾賢也(小高賢)さんにお目にかかって間もないころ、就職がしたくて未来社をたずねられたと伺ったことがある。多分その時に、松本昌次さんにお目にかかっていると思う。松本さんが手がけた思想家や文学者のものをずいぶんと読んでおられたはずである。「未来社という版元の小ささに驚いた」とも。その後、鷲尾さんは講談社に入社され、そこで辣腕編集者として「講談社新書」をはじめたくさんの書籍を手がけて世に送られたのだ。 しかし、かつて未来社で会った松本さんとの縁はつながっていたのだということをわたしはこの一冊を通して知ったのだった。きっと、尊敬する編集者として、鷲尾さんは松本さんに向き合ったことだろう。 「俳句・短歌はこれからも多くの人に愛されるでしょう。お仕事のますますのご発展、切願します。お元気で」 という言葉で松本昌次氏のお手紙は終わる。 そして、末尾に小さな字で、 (10月で90になります。呵々!) と。
by fragie777
| 2017-08-20 19:30
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Comments(2)
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