カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
8月8日(火) 涼風至(すずかぜいたる) 旧暦6月17日
灸花(やいとばな)。 朝、車から降りようとしたときにインターFMが告げた。 「次は桑田佳祐さんの新曲オアシスです」 すでに少し遅れ気味であったのだが、わたしは「オアシス」を聴いてから出社することにした。 ♪風が通り過ぎていく 燃える日々が去っていく♪ どうってことない歌詞だが、鼻にかかった声で桑田佳祐がややけだるそうに歌うとやっぱりぐっときちゃう。 しばらくそれを聴いてからわたしは車のドアーを開けて仕事場へ向かったのだった。 今日は新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 184頁 俳人金田咲子(かなだ・さきこ)さんの第2句集である。金田咲子さんは、昭和23年(1948)長野県飯田市に生まれ、飯田市在住、昭和46年(1971)「雲母」に入会し飯田龍太に師事、「雲母」同人、「白露」同人を経て、現在「郭公」同人。昭和59年(1984)に第1句集『全身』(牧羊社刊)を上梓されている。この第1句集『全身』はまぼろしの名句集である。本句集は第1句集刊行より30余年ぶりに刊行されたが、わたしはこの第1句集の編集担当者だった。従って30余年ぶりにふたたび金田さんの句集を手がけることになったのは感慨ふかい。第1句集『全身』は処女句集シリーズの一環として刊行されたが、この時に飯田龍太が推薦したのが金田咲子さんと金子青銅さん。「雲母」を代表する若手俳人としての推薦だった。 わたしはこのお二人のことは忘れることはできない。それほど印象的なお二人だった。句集『全身』は宝物のように大事して家で読んでいたのだが、どういうわけかわが家に浮遊しているブラックホールに呑み込まれてしまったらしく、見つけられない。この一週間捜しつづけているのだが。このブログでこのまぼろしの名句集を紹介したいと思ったのだが、それもできなことが残念である。 句集『平面』を紹介する前に、句集『全身』に寄せた飯田龍太の序文を短いので全文紹介したいと思う。この序文もけだし名文である。 俳句にとって季語は、肉体にたとえるなら、骨にあたる。たしかな骨組みがないと、作品はひ弱になる。 しかし、骨が正常に機能するためには、強靱な筋(きん)と、弾力ある豊かな肉が具わっていなければならない。しかも健康な肉体は、骨のあり処(ど)をあらわには見せない。 骨格を支える筋を感覚に、肉を情念に置きかえるなら、金田咲子さんの作品は、俳句としての健康な条件をほぼ十全に充たしているように思われる。 しかも外見は、まことに楚々とした風情。着痩せするタイプのようだ。その上、餅肌の俳句である。両者相俟って弾力ある自在を生み出しているように見える。それが生得のものであることは、句作初期と見られる開巻頭初の諸作、たとえば、 夕空の絶え入るばかり梅咲けり 極月の空青々と追ふものなし 遠くからくるやすらぎにいぬふぐり つり橋がゆれすみれゆれだれか来る などを見れば一目瞭然。 ただし、句集『全身』を読み通してみると、作品のすべてに紗(うすぎぬ)をまとっている。どこか高貴な憂愁の翳が漂っている。その翳がどこから来るのか、わたしにはわからない。あるいは作者自身もさだかではないのではないか。 一月のなかの一ト日暮れにけり 月夜から月夜に遠き寒さかな 炎天を来て炎天を振りむく子 いちいち例証するときりがないが、たとえば第三句の「炎天」の作。対象は見知らぬ子だろうが、作品の上では、瞭かに作者の分身として現じてくる。しかも、分身は眼前にあって、その思いは遥かに遠い。咲子さんにとって、とらえ難いそのおもいを俳句に托する限り、詩情の枯渇はあり得ないだろう。 この龍太の序文に、当時新米編集者のわたしは打ちのめされた。すばらしくカッコいい序文でありまたそれに応える句集『全身』だったのだ。 さて、句集『平面』であるが、30余年の月日が流れたその第2句集である。この間、師・龍太を失い、父母を失い、そして最愛の夫を失った。喪失の歳月だったと言ってもいい。句稿を貰ったときにわたしはその歳月をしみじみと思ったのだった。 湯へ下りてゆく足音もみどりの夜 山百合の大きな香り師に近づく 梅雨深くひととひととのあはひかな 花八ッ手隣家なまなましくありぬ 柿の木のぶこつに寒し喪の家は 夕の虹はげしきことを草に見し くちなはに草のつめたき音すなり こどもの日がらんがらんと夕日落つ ここには、龍太の叙情に通うものがまぎれもなく、ある。 処女句集『全身』から三十余年の歳月が流れた。それはあっという間であったがその中で私は大きく変化した。長く携わってきた仕事をやめ結婚もした。 そんな中、私が俳句をすることのよき協力者であった母が、平成二十四年一月一日、九十五歳で逝った。自ら死することを十分理解しての死であった。 そしてまさかと思った夫・穆(あつし)が平成二十七年三月二十六日、七十四歳で忽然と世を去った。脳梗塞後遺症による誤嚥性肺炎を患い入退院を繰り返した。その日も又入院かと思い病室でバイバイバイバイとお互いに手を振って別れたそのわずか三十分後の窒息死であった。十七年間介護してその最後を看取れなかった。どの様に死んで行ったのかが見届けられず残念で悔しかった。 そしてその日から私にこれまでの生涯はじめての一人の生活が始まった。 夫とは俳句のよきライバルでもあったが晩年は頑張ってとお尻をたたかれる日々でもあった。 夫は私の俳句そして人生そのもののよき理解者であり愛してくれた。 そんな夫にこの句集を誰れよりも先に読んでほしいと思う。 「あとがき」を紹介した。 死は何かどまん中なり雪ちらちら 雪の遺影父のいちばんやさしい貌 母の所作だんだんあはし菊にほふ 死は平面しづかに春の逝きにけり 夫の忌の鼻の頭を春逝けり あつが死んだ日囀りの口が見え 幾度のかの愛する人たちの死を経験した著者である。「死は平面」の句は句集のタイトルとなった一句である。 亡骸の手が凍てついてゐたりけり この句は母の死を詠んだものだ。この「手」は、飯田龍太の「手が見えて父が落葉の山歩く」の「手」に通ずるものがある。金田咲子さんの脳髄には龍太の「手」が焼き付いているのだろう。もうひとつ「手」を詠んだ句が収録されている。〈一月も晦日となりぬ手が濡れて〉こちらは生者の生活者の「手」である。「手」が意味するものは深い。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 金田さんのご希望は色はブルーに、ということであった。 集名は、銀の箔押しとした。 著者には、銀色の方がいいのではと思ったのだ。 表紙。 扉。 あえて天アンカットにして、ブルーの栞紐をつける。 楚々として世界に媚びない一冊となった。 少年のごとくに雛の間をよぎる 好きな一句である。この「少年」は著者自身である。「少年のごとく」である著者はあくまでも少女ならぬ成熟した女性である。しかし、少年のごとくであるという。「少年のごとく」とはどういう所作だ。ちらりと雛様をみてそれはきらびやかな美しいものであるけれど、自身とは何のかかわりもないものとして無視して行く。男ではない少年にとって雛様というものは未知数なものだ。あるいは興味の対象にもならないのかもしれない。ただ、著者は、あるいは雛様を飾った当人であるかもしれず、雛様との関係性は習熟している。しかし、あえて「少年のごとく」だ。深読みをして言ってしまえば、わたしは、人間社会の条理に対して反逆性を秘めている金田咲子を見いだす。どこかに切っ先するどいナイフを隠しもっているような。ともかくも好きな一句である。 集中、一句のみ「悼」と前書きのある句がある。 怒りのみいちじく割れるのを待てず (悼 金子青銅氏) が収録されている。この一句はわたしにとっても切ない。 かつて句集『全身』と時を同じくして句集『満月の蟹』(この序もすばらしい)を刊行した金子青銅さんへの追悼句である。 いかりかたまりてかなしみとなる柘榴 青銅 この一句はわたしにも忘れられないものだ。 今日はおふたりのお客さまがあった。 お一人は金田咲子さんとともに「雲母」で飯田龍太に師事し、いまは「郭公」に所属しておられる舘野豊さん。 舘野さんは、目下、三森鉄治さんの遺句集の刊行のために尽力しておられる。 もうお一人は赤星美佐さん。 亡くなられた三森鉄治さんの妹さんである。 山梨県の甲州市より今日はご挨拶に見えられたのだった。 三森さんの闘病のご様子など、赤星さんより始めて伺うことになった。 「兄はわたしに対しては、苦しい顔をみせずいつもニコニコしておりました。煙草もお酒も止めず、いつも通りの生活でした。入院してから二週間後には亡くなってしまいました」と赤星美佐さん。 三森さんが記されていた闘病のノートを持参されたのを見せていただいた。 「兄は、最初は詳しく記していたんですけど、間もなくノートに記すことを止めてしまいました」 きっちりとした字で記された闘病日記。俳句も記してあって、第一句目は、 冬の靄まだ死ぬわけにゆかぬなり とある。 「死ぬ間際まで、俳句のことだけでした」 今回は遺句集のみならずそこに既刊句集すべてを加えた季語別句集をつける予定である。 それによって、単なる遺句集にとどまらず全句集としての資料性も兼ねることになる。 遺句集の句稿をいただいたときにそのことを提案させていただいたのだった。 句集というかたちで自分の作品を遺すこと、三森鉄治さんは最後まで次の句集を句稿を考えておられたということ。 10月2日が命日。 それまでに刊行したいところだが、すこし無理かもしれない。 「急いでつくるより、じっくりとやりましょう」と舘野豊さんはおっしゃってくださった。 舘野豊さん(左)と赤星美佐さん。 「お兄さまにやっぱ似てらっしゃりますね」と申し上げると、 「ええ、よく言われます。でも、むかし、兄とは8歳も違うのに、弟がいるだろうって言われたんです。それはショックでした」と笑いながら美佐さん。 台風一過の東京は猛烈な暑さだった。 その暑さのなかを帰っていかれたお二人だった。
by fragie777
| 2017-08-08 20:33
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||