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6月6日(火) 蟷螂生(かまきりしょうず) 旧暦5月12日
アムステルダムミュージアムの美しい階段の手すり。 床のタイル模様、どこかで見たことが、、 腰の痛みのショックで、昨日ご来社下さったお客さまを紹介することをすっかり忘れてしまった。 昨日はお一人、お客さまがお見えになられた。 寺澤佐和子さん。 句集のご相談に見えられたのである。 寺澤さんは、俳誌「未来図」に所属する俳人である。 この度、第1句集を上梓することを決断されたのである。 伺えばもう20年近く俳句を作ってこられたという。 「本当はもっと早く句集をつくることをしておけば良かったんですけど。いま、たくさんの句を目の前にして選句が大変です」と寺澤佐和子さん。 20年も俳句を作って来られたということであるが、とても若々しい寺澤佐和子さんである。 さて、新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装。 198頁 著者の佐保光俊(さほ・みつとし)さんは、昭和34年(1959)広島市生まれ、広島市在住の俳人である。本句集は、第1句集『銀漢』につぐ第2句集である。「第二句集『残雪』は、平成二十三年秋から平成二十八年夏までに得た句から三百四十三句を選んだものです。」とあとがきにある。句集名は「残雪」 残雪や人の出て来て薪を割る 残雪や生木を切つて杖にして 本句集に収録された「残雪」を詠んだ二句である。 穏やかに晴れた残雪の山。目が痛いほど眩しい稜線を歩いていると、山の遅い春を実感する。山毛欅のまわりが丸く空き、染み出た雪解け水が、やがて水量豊かな沢になってゆく。 つんと鼻を突く動物の尿やころころと転がる糞、兎や狸や尾羽を引き摺った雉の足跡。春風に吹かれ、こうした痕跡を見るのは楽しい。雪間に、雪割一華や片栗、岩団扇を見つけると、思わず花の名前を呼んでしまう。 「あとがき」の言葉である。 この「あとがき」が象徴するように、著者の心は常に自然へ向いている。著者に関わる具体的な情報はこの句集からはあまり見えて来ない。あえて語ろうとしていないのかもしれない。自然と向き合う著者の心がとらえたものが俳句となって収められているのだ。自然を目の前にして、佐保光俊さんは、瑞瑞しく反応する。それだけが喜びであるかのように。 古知谷や山茶花の雪解け残り 落ち口に回つて見たる冬の滝人待ちに寄る境内の梅の花 いつまでも犬の蹤きくる班雪かな その山の上に生まれて夏の雲 眼鏡をとつて泉に顔洗ふ 龍淵に潜みてよりの星の数 切株の上も掃かれて冬館 残雪の小学校の学習林 雨音のあるかなきかの桜かな 沈みゆく鯉の巻き込む花の塵 風入れに戻りし家や山笑ふ 冬夕焼手が出て窓を拭いてをり 家と蔵映れる代を掻きにけり その下に赤子を抱いて百日紅 葉牡丹に雨足強くなりにけり 白梅に夜の帳の下りにけり 木天蓼の花を無心に嗅ぎにけり 素直なる心で梨を剝きにけり 春の田をよぎり手紙を出しにゆく 本堂の下も涼しき風が吹く 夏の雲形くづさず通りけり 担当の文己さんが、「たくさん好きな句がありました」と言ってあげた句である。 そして、「『稜線』や『源頭』など、知らない山の言葉が多く出てきました。山の四季の中で生活している感じでした。」 と。 ああ、そうかもしれない。著者の佐保さんの喜びは、山の四季を歩きまわることなのだと思う。 冬夕焼手が出て窓を拭いてをり わたしも好きな一句である。「手が出て窓を拭いており」という叙法が面白いし、一読後、窓を拭く夕焼けの手が鮮明に心に残る。 本句集を貫いているのは、自然によって浄化されている人間の世界である。最初から最後まで清潔な風が吹き渡っているかのようだ。一読後、読者の心にも清浄な風が吹き抜ける。そんな句集だとおもった。 日の光が溶け込んだ渓流には、岩魚や山女魚、天魚の影が走る。麓に下りると、待っているのは、蕗の薹や漉油、楤の芽などの山菜だ。 縦走を終え、すっかり春らしくなった集落の外れで、残雪の山を見上げながら酌む酒は格別である。縦走の疲れと山の話に酔いは回り、夜は更けてゆく。 ふたたび「あとがき」を紹介した。なんとも羨ましいような暮らしである。山登りをよくする佐保さんなのだろうか。きっとそうだ。 本句集の装幀は、君嶋真理子さん。 佐保光俊さんの持っている清潔な静謐さが、うまくブックデザインされたのではないだろうか。 淡い金箔の文字をとおして、春のきざしを感じてもらえればいいのだが。。。 表紙には、春のあたたかさが伝わるようにグレーと薄緑が混在する用紙を用いた。 見返しの用紙も同じもの。 扉は、モノトーンである。 カバーと同じ用紙を用いて、雪の結晶のような小さな綺羅がある用紙である。 まるで雪が積もっているかのようである。 しかし、薄クリーム色の用紙のゆえにどこか温かい。 今朝も掃く地蔵の前や石蕗咲いて 初花の下ていねいに掃いてをり 花擬宝珠映れる池の端を掃く 黄葉を掃いて日向へ出でゆけり 切株の上も掃かれて冬館 はくれんの下より掃いて行きにけり 仁和寺は回廊の雪掃いてをり ていねいに桜紅葉の周り掃く 日の暮の水仙の前掃きにけり 掃き終へて落葉の匂ふ社かな すつきりと樹下の掃かれて花水木 掃く人の遠くに見えて夏深し 本句集において「掃く」という言葉が使われた句がこんなにもある。多くは「掃いている」著者の姿である。 一年中、掃いている。「掃く」ことに喜びを感じている著者である。この句集を貫いている清潔感は、この「掃く」という行為によっても裏付けされているようにわたしには思えるのだ。 今日は、アムステルダムミュージアムの代表的な作品のみを紹介したい。 と言っても、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は、なんとルーブルに出張していて見られなかったのだ。 がっかり。 ミュージアムの内部も美しい。 これらの作品の前を通って、 いくつもの部屋を通り、階段を登ったのかしら、降りたのかしら、 奥の方にたくさんの人だかり。 作品の大きさに驚く。 レンブラントはたくさんの自画像を描いた画家だ。 光の当て方がやはり巧い画家であると改めて思う。 フェルメールの「手紙を読む青衣の女」 小さな作品が多い。 見られなかった「牛乳を注ぐ女」はいかほどの大きさなのだろう。 フェルメールの「恋文」 このミュージアムにも使われていた。 フェルメールの「小路」 「デルフト眺望」を思わせる色使いである。 これらは小品と言ってもいいような大きさだ。 そして、画集のみで知っていたこの作品を見られたのがなによりも嬉しかった。 ヤン・アセリンの「威嚇する白鳥」。 17世紀のオランダ画家だ。 画集以上に迫力のある絵だった。(当たり前か。。。)
by fragie777
| 2017-06-06 18:55
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