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3月6日(月) 旧暦2月10日
矢川緑地に咲いていた寒緋桜(カンヒザクラ)。 深見けん二先生は昨日の5日で95歳を迎えられた。 まことに目出度いことである。 深見けん二先生、おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 先生のお誕生日は、ふらんす堂のお誕生日と2日違い。 ということもちょっと嬉しい。 春風とともにあたらしい洗濯機がやってきた。 控え目な大きさがわが家によくあっていて、初めてまみえたときにはなんだかもうずっと前からそこにあってたいへん馴染み深い存在のように思えた。 蓋をとって最初の洗濯物をうやうやしく放り込み、眼鏡をかけてどうやるのかちょっとドキドキしながら案内表示をみた。 (普通の人は放り込む前に見るんだけど、わたしは違うのね) えらく簡単じゃん。。。 で、洗剤をいれて蓋をしめた。 上の蓋が透明になっていて選択状況がわかるというのもいい。 洗濯物がくるくると静かに回りはじめた。 しばらくじいっと見ていた。(こういうのって嫌いじゃない) いつまでも洗濯物が回っている。 なんだかおかしい。 あまりにも中の洗濯物の回り方が軽やかすぎるのだ。 新しい洗濯機とはいえ、こんなんで洗えているのかなあ。 数分が経った。 やっぱりおかしい、、、 ああ、水が出ていなかった。 つまり水道の蛇口が硬く閉められたままだったのね。 (なあ~んだ)とわたしは思いっきり蛇口をまわして水を景気よく出した。 洗濯物も水を喜びながら回りだし、洗濯機の音も、 (洗濯してまっせ!)という重さをもった音に変わったのだった。 安心してわたしはようやく洗濯機を離れることができたのだった。 新刊紹介をしたい。 著者の松田雄姿さんは、昭和9年(1934)熊本・水俣市生まれ、現在千葉・柏市在住。昭和49年(1974)に「濱」に入会し、大野林火に師事、林火亡きあと松崎鉄之介に師事、平成6年(1994)に俳誌「百鳥」(大串章主宰)に創刊同人として参加、以後同人会長を平成27年(2015)まで務める。本句集は平成15年から平成27年までの12年間の作品をおさめた第4句集である。著者の松田雄姿さんは、今年で83歳を迎えられた。「老い」をどう生きるか、本句集を読んでいると、そのことに向き合っている著者の姿がおのずと現れてくる。 朝夕のこころを異に牡丹見る 物言はぬ一日黴びてゐるごとし 行く秋の己励ます旅に出る 開戦日一年生が七十に 老馬にも千里の志あり雲の峰 日焼して余生に恃むこと多し 風邪よりも十日歩かぬこと恐る 逃げ水や夢追ひ続け七十五 毛皮着て老人会に加はらず 友来る啓蟄のごと家を出て 喜寿迎ふ炎ゆる日輪力とし 甚平や齢に従ひ又抗し この秋思齢の重さかも知れず 氷面鏡他人のごとく老いてをり 暑に負けじ己の影を踏みて歩く これよりの未知の八十路や初山河 白眉白髯涼しく雛を語りけり 夏燕切り結ぶもの我も欲し 鷹翔る一心後は振向かず 本句集は70代を中心に80代前半までの作品である。畢竟老いに真向かうことになる。しかし、今の世、70代はまだまだ若いと言わねばならないほど長生きの時代である。私は思うに、肉体は老いていくが精神はなかなか老いないものである。だから肉体の物理的な衰えや病いによって人間は老いをいやおうなく感じるが、精神そのものは、老いるというよりも死が物理的に近づきつつある、ということで「老いていく我」を認識するのだ。しかし、感じたり考えたりする心(精神)は、老いることから無縁のように思えるのだが、どうだろう。著者の松田雄姿さんは、その「老い」というものを自身なかで対象化し、その上で自身のありようを捉え直しているのだ。いっぽう、同じ年代の女性はもう少し即自的に生きているような気がする。すこし分かりやすくいえば、松田さんの場合、まず年齢があって自身がある。83歳なら83歳の我がまずあるのだ。そうでない場合はまず自身があって、年齢はあとづけされるか、もしくはあまり意識されない。たとえば、卑近な例でいえば、このyamaoka、わたしにとって物を見たり考えたりするとき、まず年齢はどっかへ行っている。ときには15歳の少女になんかなっちゃっていることもある。 本句集は、著者が「老い」というテーゼを意識化し、どう取り組んでいるかを俳句につぶさに詠んだもの、という句集であるということもできる。 大野林火先生は、還暦を迎えるに当たり、如何に老いるかを命題とし、七十代には、如何に死ぬかを命題にされたという。私の場合は命題というほどではないが、この間、齢を大事に明日への夢を失わず、日日を生きようという思いが強かった。これが延いては、如何に老いるかに繫がるのではないかと思う。 しかし、本集を纏めて、それが具現されているかどうか、心もとない気がしないでもない。 (略) 「これよりの未知の八十路や初山河」を念頭に、これから迎える未知の日日を励みたいと念じている。 「あとがき」の言葉である。この「あとがき」を読んでいっそうわたしは先ほどの思いを強くしたのである。 松田雄姿さんは、とても真面目な方でいらっしゃるのだ。 句集のタイトルは「歳月」。 まさに著者の生きてきた時間が意識されているのである。 本句集の担当は文己さん。20歳前半の文己さんの選んだ句はいかがなものだろうか。 流れ星天の剝落夜もすがら 賀状書く二つの名前使ひ分け白鳥来銀河を発ちて来しごとく 夜神楽の帰りの道の怖ろしき 寒林に言葉失くしし如く座す 鮭のぼる川の底まで夕焼けて 月蝕の終始の冷えをまとひけり 帰化の人祖国語らずふぐと汁 生命線は掌中にあり極暑来る 鷹翔る一心後は振向かず やはり、文己さんの選んだ句には年齢が消えている。 老いを見つめそれを詠む俳句の中に、このような句が鏤められているのである、それが本句集の魅力である。 ほかに、 山茶花散る散る慶びのありて散る やんまの眼眼鏡を掛けて見たりけり 河と川つなぐ運河や初つばめ 唄ふ埴輪踊る埴輪や月を待つ馬の耳木下の涼を楽しめり 烏瓜怒りの後の淋しさに 狐火に埴輪の眼燃えにけり 古事記にもその昔あり浦島草 巫女舞の鈴より木の芽動き出す 日日みどり濃くなる言葉湧くやうに 管絃祭ぐんぐん潮の差し来たる 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 松田雄姿さんのご希望は、雪山をバックにしかし白っぽいものにならず落ちついた仕上がりに、というものだった。 君嶋真理子さんは、著者の希望をクリアされたであろうか。 表紙は濃紺。 落ちついた荘重感があり、松田雄姿さんのお気持ちに叶うものとなったことを喜びたい。 遠山の暮れてゆくなり冷奴 理由は「冷奴」がとても美味しそうだったから。俳句で「遠山」を使うことは案外難しいのではないだろうか。虚子の「遠山」の句が鉄壁のごとく立ちはだかってくる。しかし、この遠山は、冬の遠山ではなくきっと美しい青嶺だ。白い豆腐も映えるというものである。涼しい夕方にゆったりと、どうしてゆったりとかと言うと、それは虚子の句がすでにわたしたちの心にある悠揚な思いを呼び起こすのである、「遠山」と聞いただけでも。そんな夕べに冷奴を食する。美味いだろうなあ。ってわたしは思ったのである。
by fragie777
| 2017-03-06 20:07
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