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11月8日(火) 山茶始開(つばきはじめてひらく) 旧暦10月9日
晩秋最後の一日の風景。 風邪を引いてしまったらしい。 軽い咳がでて、声がしわがれだした。 いそいで葛根湯を飲み、ビタミンCの錠剤を呑んだ。 これ以上ひどくなりませぬように。 新刊紹介をしたい。 紹介がすっかり遅くなってしまった。 すでに好評で品切れとなり、目下再版中である。 小津夜景(おづ・やけい)さんは、1973年北海道生れ、現在は南フランスにお住まいである。 本句集は、句集と銘打っているが、句集というジャンルに括ってしまいたくないような、たしかに俳句が中心であるが、詩的言語によって綴られた良質な書物と言ってもいいのではないか。ところどころにちりばめられた散文も面白い。 一般的な句集のスタイルになれた人たちにとっては、本書はその俳句も含めて極めて刺戟的である。 わたしなどは、これまでの句集を読むときの脳細胞とは別の領域に気持のよい刺戟をもらいながら読み進んだ。やや難解で理解しきれないときは前頭葉あたりがむずむずした。こんな言い方でわかるかしら。 小津夜景さんという俳人の登場が、若い俳人たちを中心におおいに人気があるというのもうなづける作品群である。 本句集のために、ふたりの方から帯文をいただいている。 廃園から楽園へ 正岡 豊 のほほんと、くっきりと、あらわれ続ける言葉の彼方。 今ここをくすぐる、花の遊び。 読んでいる私を忘れてしまうのは、 シャボン玉のように繰り出される愉快のせいだ。 鴇田智哉 「楽園」や「愉快」という言葉がこの句集の世界へと明るく誘う。 目次を紹介しておきたい。 全体を三つにわけ、Ⅰは「息をのむ坂道」「古い頭部のある棲み家」「反故に吹かれて」「さらさらと」「音に触る」「水、不意の再会」「西瓜糖の墓」「明るい土地より」Ⅱは「閑吟集」「フラワーズ・カンフー」「ジョイフル・ノイズ」「聖夜を燃やす」「こころに鳥が」Ⅲ「天蓋に埋もれる家」「出アバラヤ記」 「オンフルールの海の歌」となっている。 ひとつの見出しにあたる俳句は連作なのだろうか。ともあれ、本句集の肌触りを感じてもらうために、「息をのむ坂道」よりの句をすこし続けて紹介したい。本文の活字と組方にも小津さんの作品世界観が反映されている。 最初に二句がおかれ、四句組でつづき、最後はふたたび二句で終る。活字の書体もこだわりがあって本句集のためにフォントを新しく購入したのだった。 あたたかなたぶららさなり雨のふる ミモザちる千年人間(ミレネリアン)のなきがらへ 日々といふかーさびあんか風の羽化 うららかを捧げもつ手の手ぶらかな さらばとは聞かで消えたるのどかさの 春てぶくろにおぼつかなくも棲む海か きのふより少し古風な木に出会ふ 鳴る胸に触れたら雲雀なのでした ひきはがす東風とペーパーヒコーキを 朧夜がなにもない巣を抱いてゐる きぬぎぬのあさつきぬたの柔らかき ほのぼのとひとりぼつちの脇腹よ 春蝉を食(は)みてきよらでぐうたらで たましひとなりぬ馬酔木のともしびが これまでの俳句にはない触感である。字体の変容のためもあるのか、意味よりもまず字面が目に飛びこんで、それから音が心地良く耳にひびき、意味はそのあとだ。あるいは意味はそれらに従属しているかのように、いやあたらしい感触の世界がそこにある。なんだかへンだけど面白い。だからどんどん読んでしまう。 手垢を削ぎ落とした言葉たちがやわらかにひしめいている。そんな感じかな。 「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間しばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である。 文字に触れるときの私は、思い出に耽りつついまだ知らない土地を旅している。それは散乱する〈記憶〉の中から〈非- 記憶〉ばかりをよりすぐる、あたかも後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワークだ。二年半にわたるこの行為のさなかにおいて、私はちょうど海を眺めるときと同じように自分が〈記憶〉と〈非- 記憶〉との汀、即ち〈現在〉に対して開け放たれてあるのをずっと感じつづけていた。 おそらく〈非- 記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。その意味で大人たちは、子供たちよりはるかに輝かしいたった一度きりの〈現在〉を生きている。 本書は二〇一三年十一月から二〇一六年四月までの期間に発表した自作より三百十四句と十五首を選び、新たに編集し直した(出アバラヤ記の改稿含む)ものである。 「あとがき」の一部を紹介した。「後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワーク」と記されているように、非常に意識的な俳句の作り方である。新しい方法を駆使して誰も書かなかった俳句を書こうとしている小津夜景さんであるが、本句集の世界はとても柔らかで楽しい。読者を飽きさせない豊かな試みに満ちている。 担当のPさんは、本句集に鏤められた散文が面白かったという。 「意味の変容」から少し紹介したい。 ●あのね、私はこの本のリアリズム信仰に大反対なの●私はこの作者のやうには「あるがままの現実」をないがしろにできないし、彼の夢見るやうな、現実と実現とを高みでひとつに交へる恍惚にも興味がない●そんなおめでたい思ひつきを気の毒にすら感じてゐる●でもね、だからと言つて私が「魂の脱離」の問題を理解してゐないなんて思はないでね●だつて私は「あるがままの現実」から「ならねばならない実現」までを駆けあがる恍惚のかはりに「ならねばならなかつた現実」から「あるがままの実現」までを馳せくだる痙攣を知つてゐる●私にはそんな自由だけがある●そして生死が非対称であることは、そんな「ならずもの」になる自由の可能性をあきらかに孕んでゐる●現実を問ひつづけて、あへて実存の翳にとどまつてゐるときこそ、私は「私」の仮面のはづれてしまつた「あるがままにある」「なにものでもない」人でなしとして、ひそかに実現されてゐるのよ●……●わかつた?●……ああよかつた!●それでね●もう想像がつくかも知れないけど●実は私はこの家の幽霊なの●広すぎるやうな、狭すぎるやうな、いつさいを呑みこんでしまつたやうな、じぶんの重さで天蓋にめりこんでしまつたやうな、この家の幽霊なの●ここがすべてを呑み込むせゐで、私は世界の外をうしなひ、私は孤独な世界になつた●そしてどこまでも開かれた「家」に存在する私には、どこにも出てゆかれる場所がない●人でなしといふのはさういふもの●ところで●それがリアリズムなんかぢやない、どれだけ恐ろしいリアルそのものなのかあなたにわかる? 途中からの抜粋なのでわかりにくいかもしれないが、文体を味わってもらうのもいい。 本句集の「出アバラヤ記」は、俳句と散文が交互におかれて、ひとつの物語を構築している。わたしはこちらがとても面白かった。ほんの一部のみ紹介する。 ひだまりの色なき風を化石とも 私の手はそんな気配をよそに朝食の準備にかまけてゐる。ゆふべのシードルの飲み残しを捨て、麻のふきんで調理台をすつかり拭いたのち、たつぷりの水を水差しから湯沸しに移す。コンロの直火にそれをかけ、食器のならぶ棚に手をおくと、つかのま思案して急須と茶碗を選びだす。 たんこぶに桃を手かざす待合所 陽を仰ぐ仕草で急須のうすい底を透かして汚れがないか確かめる。そして茶葉を二匙ばかりそこに放り込む。シナモンも一緒に。と、これだけの営みから台所の活気を察した野鳥たちが、何か分け前にありつけるかもしれないといつた勢ひで、みるみるうちに窓辺を占拠してしまつた。 蚊帳を干す脂肪のついた白い腕 手足をあざやかに立ち働かせながらも晩夏初秋の客人に心を奪はれてゐる私は、そんな野鳥たちの期待にちつとも応へる気にならない。しかし彼らは待つてゐる。いつまでも。なぜいつまでも待つてゐるのか。彼らはほんたうに生きてゐるのか。それとも。 このようにして俳句と散文によってひとつのストーリイが展開していく。 担当のPさんが好きだという句を少し紹介したい。 晩春のひかり誤配のままに鳥 起こし絵を畳み帰らぬ人となる 思ひ寝を弔ふバニラアイスかな 石ころと暮らして蔦の手帖かな 戸は萩にわれは仮寝に酔うてをり まなぶたのかさぶためきて年深し 数へ日をわづかに濡らし木の肌は あしのうらぽかんと眠るとき他人 まだ踏まぬ切手の国や種をまく 春や鳴るや夜汽車シリングシリングと フイルムは深き眠りに降る砂か 瞑りたる目は鶏頭の襞のまま 冬といふしなやかな字を忘れもし 白骨となりそこねてや夢のハム 無音にも疵あることをレコードに確かめ午後を眠りたるべし 跡形もなきところより秋めきぬ かりがねや世を早送りするごとく うぶごゑがある枯園のあかるさに はなびらに吹かれて貌となる日かな 昼寝せり手は流木をもよほして 本句集の装幀は和兎さんであるが、著者の思いをつよく反映したものとなった。 装画は、小津さんのご希望で「しおた まこ」さんにお願いした。 南フランスにお住まいの著者からとどけられた一冊。 俳句の風土が新しい風をくぐりぬけてきた。 読み物として楽しい一冊であるが、俳句をつくる人間には楽しい刺戟をあたえてくれる句集である。 本句集には、短歌が15首収録されている。このことについては、「あとがき」でこう記している。 この〈八田木枯句の主題による短歌〉は本書の構成上欠かすことのできない〈俳句に捧げるインテルメッツォ〉として全首ほぼ即興で書き上げられた。私は俳句の地層に眠るいにしえの長句をみずからの手で掘削し、始祖鳥の化石に触れるみたいにそれを慈しんでおきたかったのである。 本句集を読んでいると、八田木枯の句をふと思い出させる句が少なくないようにおもった。 オルガンを漕げば朧のあふれたり 好きな一句である。オルガンはまさに漕ぐという表現がピッタリである。そしてあふれくる朧。オルガンの音は朧を呼ぶ。そうか、最初気づかなかったが、この「朧」。八田木枯さんがお好きな言葉でなかったろうか。 今日は3人の方がご来社くださった。 俳人の山崎祐子さんが、俳句のお仲間の鈴木千恵子さんとご息女の石井厚子さんをご案内してきて下さったのだ。 鈴木千恵子さんが、この度第二句集を刊行されるため、そのご相談に見えられたのである。 鈴木千恵子さんと山崎祐子さんは、「風」(沢木欣一主宰)時代からの俳句の仲間である。 いまはお二人とも「りいの」(檜山哲彦主宰)で俳句を作られている。 山崎祐子さんの句集『葉脈図』を手にとられた鈴木千恵子さんが、「こういう柔らかな手触りの句集をつくりたい」ということで、ふらんす堂にいらして下さった。 ご息女の石井厚子さんは、お母さまのために句稿の打込みをしてくださるということ。 鈴木千恵子さんは、ご両親や親戚兄弟みな俳句をつくられる環境にあったということ。俳句をならうというのではなく俳句が日常にとけこんでいて慶事や弔事につけては挨拶句をつくることが当たり前の環境で育ったという。 「だから俳句なんていつだって作れるとバカにしてました」と鈴木千恵子さん。 本格的に俳句を始めたのは50歳になられてから、担当医だった瀧沢伊代次にすすめられて始められたという。 「やってみると奥が深いですね。いま山崎さんたちと一緒に勉強させて貰っています」と鈴木さん。 鈴木千恵子さん(手前)、山崎祐子さん(右)、石井厚子さん。 本句集のタイトルは「余白」。 米寿の記念にと、お元気に告げられたのだった。
by fragie777
| 2016-11-08 20:02
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