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8月17日(水) 蒙霧升降(ふかきりまとう) 旧暦7月15日
新宿御苑に咲いていた杜鵑草。 蒙霧升降(ふかきりまとう)は、24節気72候の第39候にあたり、「残暑が厳しい日々でも、朝夕はひんやりとした空気が心地良く感じられるようになり、早朝、深い森や水辺に白く霧がたちこめ、幻想的な風景が見られるのもこの頃。」とある。たしかに立秋を過ぎると朝夕にわかに涼しくなる。 夏風邪は薬で押さえているらしく、いまはどうにか落ち着いている。ただ、投薬のためか、昼過ぎは眠くて眠くて困った。仕事をしながらいつの間にか、机に突っ伏して眠ってしまったのだった。(それはあながち薬のためとは限らずって、誰かが言っている。うるさいわよ) 新刊紹介をしたい。 著者の小長谷敦子(こはせ・あつこ)さんは、昭和17年(1942)東京生まれ、現在は東京・府中市にお住まいである。昭和53年(1978)より句作をはじめ、平成14年(2002)「若葉」入会、平成20年(2008)「若葉」同人、ほかに「岬」の同人でもある。本句集は第1句集で、「若葉」の鈴木貞雄主宰が序句を寄せている。 聖マリアの深きまなざし秋の薔薇 貞雄 著者の小長谷さんは、ことのほか薔薇がお好きらしい。本集は四つの章に分けられてあるが、初めの章は、「薔薇十句」と題して薔薇の句のみがおかれいる。 父在さぬバージンロード薔薇白き (娘亜紀 結婚) アイーダの凱旋の楽薔薇くれなゐ 薔薇剪つていらざる妬心呼び覚ます 風の研ぐ棘銀色に冬の薔薇 10句のうち4句を紹介した。薔薇の句を集中のはじめにおいたことについて著者の小長谷さんは集中何も語っていないが、薔薇の句を以て、ご自身にささげる自祝の意味をこめたのではないだろう。また、この句集のための華やかなプレリュードでもある。 逸らさうとする目が合へりスイートピー うそ泣きの眼が指の間に赤のまま 本句集は、女性性というものをそこはかとなく感じさせる句集である。女の性を前面に押し出しているということでもなく、どこかに女である自分を意識し、俳句をつくるときもそれを手放さずにいるというか、そういう句が散見して興味深い。しかもそれは「目」あるいは「眼」によって表される。「逸らさうとする目」には恋の予兆を感じさせ、しかも「スィートピー」だからまだ重たくない。「うそ泣きの眼」はそれを見ている著者がいるのか、あるいは自身の眼をそう詠んだのか、どちらでもいいが、大仰なドラマになりそうなところを「赤のまま」で可愛い女として許されるのか。どちらも面白い句である。 平成八年の主人との別れより丁度二十年が過ぎ、ここで句集を編み追悼と感謝のよすがにしたいと思いたちました。 鈴木貞雄主宰には光栄にも御序句をいただけることになり、思いつきは確かなものへと歩きだし友人たちの応援を力に、もう後には引けぬことになりました。 手の内にダイヤのクイーン薔薇壺に 敦子 鈴木主宰に初めてお目にかかりました上智大学カルチャー教室での一句で、嬉しいご講評にわたくしの忘れられない句になり句集名と決めました。 「あとがき」より抜粋した。「手の内にダイヤのクイーン」というのが、華やかな著者を感じさせる。ほかに、 日記買ふ自分の中のもう一人 文字欠けしままなるネオン梅雨深し ひらひらと話上手な扇子かな 落蟬の不意の羽音の乾きゐし 秋草のかがめば膝になつかしき 秋の蚊の止まりてかすか影よりも 音のして陰にも一人松手入 その後の女将は知らず片時雨 クリスマス一人の戸にも来りけり 紅梅に女の声のよく通ふ 揺らめくはときめくに似て春の水 みごもりし身を深く入れ白日傘 闇にまだ金魚の起きてゐる気配 白塗りのピエロ老いけり巴里祭 裏窓に女もの干す白夜かな 菩提樹の影を踏むさへ涼しくて 十指組み皮手袋を落ち着かす うたた寝の男淋しき裘 短日の一人の鍵を開けて入る 本句集は、文庫サイズの小さな句集であるが、函入りのものだ。 このような本格的な函は最近つくることがめっきりと減ってしまったのが残念である。 いかに小さいかふらんす堂文庫と比べてみて欲しい。 本句集の装幀は、君嶋真理子さん。 表紙は銀色の布クロスである。 平面には空押し。 背は金箔押し。 花布と栞紐は真紅に。 踊子の呼ばれて母に戻りけり この「踊子」は多分盆踊りの踊子だろう。わたしの近所の神社でも盆踊り大会が開かれて、わたしは金輪際「踊子」とはならないが、見に行ったことがある。ご近所の婦人が浴衣をぴしっと着こなして手や足を優美に動かして踊るさまは、なかなか見事であり、この人があのいつも道であうご婦人かと見違えるようであった。ひとたび「踊子」となれば、母であることも祖母であることも妻であることも娘であることも忘れるのだろう。あらゆる役割から解放されるのだ。そういうエクスタシーが「踊る」という行為にはある。でも、娑婆から呼ばれてしまったのだ。そうしたら娑婆へ戻るしかないではないか。呼んだのが夫や母であるならまだしも子どもであるというのは、もう逃れようがない。その一瞬をうまく言い留めている。 実はわたし、金輪際踊子にはならないと書いたが、しかしながら、どこか誰もしらない所に行ってひとりで踊りの輪に加わって我を忘れて狂ったように踊ってみたい、そんな思いがどこかにあるのよ、といま告白しちゃう。 もしもよ、yamaokaらしいヘンなおばさんがどこかの山里でヘラヘラと踊っていても絶対しらんぷりしていてよね。お願いだから。 15日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、池田澄子句集『思ってます』より。 八月と言葉に出せば偲ぶ如し 池田澄子 八月は死者を偲ぶ月。二つの原爆忌、終戦記念日、お盆。沖縄の地上戦もつづいていた。もはや八月という月の名に追悼の思いがこもっているというのだ。南無阿弥陀仏とお念仏を唱えるようなものだろう。句集『思ってます』から。 今日のおなじく長谷川櫂さんによる「四季」は、三代寿美代句集『縁』より。 反論せぬ男は憎し心太 三代寿美代 反論せぬとは反論できないのではない。反論できるのにしない。なぜなら相手にならないと思っているから。この余裕が女には男の勘違いに思えるのである。同じく「反論せぬ女は憎し」ということもあるだろう。句集『縁』から。 今日は、お客さまが新潟からいらっしゃった。 大河内冬花さん。 来年に句集刊行のご予定があり、そのご相談に見えられたのだった。 大河内さんは、大学の先生でもありそれのみならず幅広く活動をされている方である。 俳句は、村松紅花(国文学者・村松友次)に学び、紅花亡きあといくつかの俳誌のご縁によって続けて来られた。「ふらんす堂句会」の岸本尚毅教室にも新潟からはるばるとご参加くださっている。 はじめて上梓される句集には岸本尚毅さんがご序文を寄せられるという。 「これから京都に向います」と、お荷物をもって向われたのだった。 「仙川は学生のころ、よく来ましたがこんなに変わってしまうとは……」ととても驚いたご様子だった。 30年以上住んでいるわたしでさえ、驚いているのですから、その驚きたいへん納得できます。 東中野というところから仙川に引っ越したとき、「なんという田舎に来てしまったのだろう」と嘆いていたのだが、今では東京のどの街より好きなところとなってしまったのである。 「住めば都」のその域をはるかに凌駕していると思う。
by fragie777
| 2016-08-17 19:36
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