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6月17日(金) 旧暦5月13日
数年前に深見けん二先生の奥さまの龍子夫人よりいただいたもの。 今日は、すこし苔むしたのをスタッフの文己さんが、ひとつひとつ丹念に洗って蘇らせた。 いまちょっとふらんす堂のパソコン状況がたいへんな状態。 インターネットもできず、スタッフがてんてこ舞いをしている。 共有サーバーの状態もよろしくない。 というか、さっきからずっとピーって音がしている。 Canonのシステムサポートに相談をしているところ。 ヤバイかな。。。。 応急処置をしてとにかく月曜日に持ち越すことにした。 コンピュータが支配している仕事場であるので、それがコケルと本当に大変である。 「つながった!」ってpさん。 ああ、良かった。 落ち着いたところで、新刊紹介をしたい。 句集名「CẢM ƠN」はベトナム語で「ありがとう」の意味。本句集には、九つの章題が立てられているが、すべてベトナム語である。 著者のコダマキョウコ(児玉恭子)さんは、1948年兵庫県生まれ、京都市在住。俳誌「青玄」を経て、「船団」「球」所属。本句集には坪内稔典さんが跋を寄せている。タイトルは「風や光、そして雑貨ーキョウコはライバル」。 春満月すこしわたしに飽きたころ 十月の岬になったのはオルガン ぶらんこを漕いで世界史は未完成 さくらさくらブエノスアイレスまでさくら インストールされゆく途中蛍烏賊 枇杷である翼喪失して以来 ふくろうよきみも偏西風なのか 春風も私もやわらかな雑貨 白鳥になるまで試着することも ひまわりの正面だけを愛したい 有名な俳人の中村汀女は「外(と)にも出よ触るるばかりに春の月」と詠んだが、その手の届きそうな大きな春の月が、ぼわっとにじんで、今にも水とか色とかをこぼしそうなのがキョウコの「春満月すこしわたしに飽きたころ」。私に飽きるという感覚が春のおぼろ月にぴったりというか、月と私がともにおぼろになって変容するという感じがある。私はその感じに驚き、そして幻惑の快さを体験する。 そういえば、岬になったオルガン、インストールされる蛍烏賊、翼を喪失した枇杷、偏西風のふくろうも、それぞれに自分に飽きているのかも。 「春風も私もやわらかな雑貨」という句は、右に挙げた十句のなかでもことに好きな作品だが、私自身を「やわらかな雑貨」と見る感覚は、私に飽きる感覚とほぼ同じであろう。私に飽きる、この感覚がコダマキョウコの言葉に生気をもたらしているのではないか。(略) もう十年以上、緊張する存在のキョウコと付き合っているのだが、実は、立ち話くらいしかしたことがない。それで十分にうちとける感じなのだ。もちろん、句会ではいくらか議論めいた話もするが、それよりも断片的な会話が、風のようであったり、光のようであったり、あるいは、さりげなく置かれた雑貨のようであったりする。つまり、ライバルのキョウコの言葉は、風や光、そして雑貨なのだ。 0.2カラットの春光猫のひげ なで肩の日本列島小鳥来る 遠きものこの冬空と私の背 百年後の私の声はかなかなかな サリーのようにまとう夏雲の切れっぱし はじめの方に収録されている作品を紹介した。イメージの飛躍があり、五七五のなかで時間も距離も身体も大きく伸縮する。しかし、気持がいい。俳句という詩の器がいかに自在にいろんなものを呼び込むか、それを気づかせてくれる。こんな句を詠む著者に会ってみたくなる。季語もあたらしい命を吹き込まれるようだ。 なにゆえ、ベトナム語のタイトルの句集なんだろう。そして章題もみな。 「あとがき」にその答えがすこし見える。 デッサンする。スケッチする。 風景を、音を、心を、今を 記憶というスケッチブック いつの間にかいっぱいに 小さな個展をしよう、と思う 言葉とことば 言葉からイメージへ ほろほろ生まれた俳句たち レイアウトできそうもない、集合体 でも、確かに、これはキュビズム 変換すれば…… わたしの自画像 ベトナムが好き。混沌と純真。 冒険とポエム。 今を、逞しく、美しく、生きている国。 「CẢM ƠN」は「ありがとう」の意。 私が初めて覚えたベトナム語。 今あることに感謝して…… 皆様に、先生に、友に、家族に、 心から…… CẢM ƠN 「混沌と純真」 この言葉に出会ってはたと膝をうった。 句集をつらぬく、やわらかなこころだ。 ほかに、 わらびぜんまいアウトレットな私の耳 月も来てキッチンという駅にいる キリトリセンに沿って明るい夏の別れ トマトかじってローマ帝国滅亡史 点訳の点より生まれモンシロチョウ 春キャベツきざみ原罪をきざみ レンブラントライトの中に置く海鼠 使いきれない空の青ソーダ水 手袋ぬぐ私の記憶ぬぐように 哺乳類サル目ヒト科コダマキョウコ このすばらしくユニークな句集の装丁は君嶋真理子さん。 扉。 すべてベトナム語である。 巻末には、日本語訳をつけた。 著者のコダマキョウコさんは、「思っていた以上の出来上がり」ととても喜んでくださった。 春風も私もやわらかな雑貨 ひまわりの正面だけを愛したい 坪内稔典さんも好きであるという二句だが、わたしもとりわけ好きな句である。 心の硬直をきらい、自在なイメージを駆使して俳句を書く著者であるが、この二句からわたしは著者の精神のまっとうさのようものを感じる。「ひまわり」は正面をもつ花だ。多くの花はたくさんの角度を持つ。「ひまわり」をおもうときわたしたちはその正面をの姿をおもう。そうであることを望まれて咲く花なのだ。夾雑を排してものの本質にたちむかう、コダマキョウコの純真さを思う「ひまわり」の句であり、しかも自身を「雑貨」とみなす不敵な強靱さがこの人の魅力だと思う。 今日はふらんす堂でわかい俳人のひとたちの勉強会が行われている。 今日の勉強のテーマは「河東碧梧桐」とのこと。 聴いていきたいとも思うのだが、おじゃま虫になってはいけないので遠慮する。 そっと荷物をまとめて帰る。。。。
by fragie777
| 2016-06-17 19:46
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