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3月25日(月) 霜止出苗(しもやんでなえいづ) 旧暦3月19日
白山吹。 20年以上お世話になった税理士の廣田陽一氏が亡くなり、お通夜に伺いいま戻ったところである。 享年65歳。溌剌と仕事をされてきた方だ。 無宗教で行われたご葬儀の献奏は故人の好きだったビートルズや井上陽水などだ。 音楽を聴いて故人を改めて発見したように思え、それもまた哀しい。 ご冥福をこころよりお祈り申し上げます。 新聞記事を紹介したい。 今日の朝日新聞の恩田侑布子さんによる「俳句月評」は、藺草慶子句集『櫻翳』を評している。 タイトルは「詩と俳の混交美」。 写生による省略の利いた句集。詩的感性による幻想美を湛えた句集。一方でもめずらしいが、両者を兼ねそなえた句集が誕生した。1959年生まれの藺草慶子の『櫻翳』(ふらんす堂)である。 枯れすすむなり夢違観世音 巻頭に据えた句が、虚と実を往還する句集であることを告げる。一義は、奈良盆地の冬枯れと、法隆寺の夢違観音を取合せた景。記憶の底の光景が枯れほろんでゆくさまと観音の微笑。そこまで味わうと、真ん中で切断された「なり」の切字が、広く遠い時空を呼び込む深淵に変わる。彼方の観音に照応するのは、かつて大切なひとと交わした恋の約束。自身にしのびよる老い、いや、幼いころ夢見た未来が、戦争と環境汚染に枯れすすんでゆくさまかもしれない。 俳句のトキメキは季節の感受にとどまらない。切れに畳まれた余白にある。 花の翳すべて逢ふべく逢ひし人 題名となった句。上五の切れに藺草のやさしさがある。思うに任せなかった出会いも別れも、歓びも哀しみ、振り返ってみれば、この大きな花翳のゆらぎのなかにあったのではないか。 わが身より狐火の立ちのぼるとは ふくろふの貌のくるりと悔いはあるか 寒卵ひところがりは戦争へ 着ぶくれて監視カメラの街歩く 前者二句の幻視は、後者二句の現実認識と俳諧精神にあってのもの。作者に13年にわたるひたむきな歩みは具象と幻想の二項対立を突きぬけた。この春も外国からの花人が増え、儚いものの価値に世界が気付き始めたかのよう。 今日の毎日新聞の櫂未知子さんによる「俳句月評」は、二冊の句集を採りあげている。 一冊は、菅美緒句集『左京』。もう一冊は嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』(邑書林刊)。 「なんてうまいのだろう!」と思える句集に出合った。菅美緒の第3句集『左京』である。ふつう、すぐに「うまいなあ」と感じる俳句は、ともすればテクニックに重きが置かれていることが多く、読後の感慨は深くない。しかし、『左京』に収められている作品は、技術の高さと共に、読者の心にゆっくり染み入る優しさを持っているのだった。 太き根に絡む若き根あたたかし 菅美緒 暮れ残る大白鳥の渚かな 八月や草色のもの草を跳び 十二月とはこんなんいも薔薇いろいろ 一句目の写生のたしかさと、季語のつき具合のよろしさ。二句目の品よく言葉を配しながらも豪華に仕上がっている技量。三句目の、「八月」という季語が引き立つように慎重に選ばれた言葉たち。四句目の、さまざまな花に行き交う歳末を見事に言い留めた力。頁を繰るたびに必ずよき句に出合える句集だった。 嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』については、 カーテンの張り裂けさうな西日かな 嵯峨根鈴子 死ねさうな月光に透け朴の花 静かの海に濡らすてのひら桜守 藻の花にかくれ藻の花咲きにけり 菅美緒とは対照的に、時にはらはらさせられるように発想や措辞をもって一句一句が詠まれている。 菅美緒は八十代になったところであり、嵯峨根鈴子は六十代後半にさしかかった年齢である。それぞれ伴侶を失ったり病を得たり、俳句だけに没頭できたわけではない様子があとがきからうかがえる。しかし、作品でそれを嘆くわけではなく、境涯は境涯、作品は作品だと、ある種の割り切りをして句集を編んだ姿勢がすがすがしい。この二冊の句集に出合えてよかった。 中岡毅雄さんによる共同通信配信の俳句評は、稲畑康太郎句集『玉箒』についてだ。 稲畑廣太郎が、第四句集『玉箒』(ふらんす堂)を上梓した。稲畑の曽祖父は、高濱虚子。2013年10月、母、汀子より「ホトトギス」を譲られ、主宰に就任。廣太郎の句は、虚子の影響を受けたと思われる軽妙な句が多く、時には、かすかな笑いを誘うこともある。 身に入みて未来を拓く覚悟かな この句は、虚子の代表作〈春風や闘志いだきて丘に立つ〉を踏まえたもの。虚子は、小説より俳句に力を入れる決意を表明している。あたたかい春風に包まれて、気持ちをあらたにしている様子が表れている。 一方、廣太郎の句の季語は「身に入む」。「ホトトギス」を継承してゆくプレッシャーを感じている。しかし、その躊躇は中七以降、見事に、覆る。「未来」「拓く」「覚悟」という前向きの姿勢を表す言葉が、次々と繰り出されて、決断の強さを感じさせる。 ただ、強い語感の言葉ばかりが並んでいるために、いくぶん、思いが誇張されている感がある。その滑稽味、巧まざるユーモアが、廣太郎俳句の魅力でもある。 晩年、虚子は、蝿叩きの句をいくつか作っている。ただし、〈一匹の蝿一本の蝿叩〉のような人を食った作品であるけれども。 蝿叩虚子の握りし凹みかな 客観的な写生なのだが、その背後には、虚子の句が見え隠れし、俳味を感じさせる。 もう惑はされない君の香水に この口語調の句は、かなりテクニカルである。「モウマドワ/サレナイキミノ」と、上五から中七までの部分が句またがりになっていて、いくぶん不安定な調べである。「もう惑わされない」の調べのぐらつきは、相手の女性へのかすかな心情の揺らぎを表している。 ソーダ水昔の恋は怖かつた ソーダ水を飲みながら話すには、少々、違和感を覚える話題だが、そのズレが一句の印象を深めている。 作者は、クラシック音楽に造詣が深い。 指揮棒の先より生るる音ぬくし この指揮者は小澤かラトルかムーティか。そんなことを想像しながら読むと面白い。「音」を「ぬくし」と捉えたところに、廣太郎の感性が表れている。 昨日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、井上弘美句集『顔見世』より。 空色の影を大地につばくらめ 井上弘美 ツバメの影が空色をしている。この映像に詩がある。ベルギーの画家マグリットに、鳥の形に切り抜かれた、雲の浮かぶ青空の絵がある。あれは鳩のようだが、こちらは燕。だから映像に詩ばかりかスピードもある。句集『顔見世』から。 そして今日の同じく讀賣新聞の長谷川櫂さんにより「四季」は、菅美緒句集『左京』より。 跳んで跳んで時には斜に上り鮎 菅 美緒 河口付近で冬を越した鮎の子は春、いっせいに川をさかのぼる。子鮎たちの嬉々たるようす。堰から流れ落ちる水を上がるところだが、なかには狙いがはずれて弾き返されるのもいるようだ。子鮎も水しぶきも春そのもの。句集『左京』から。 東京新聞では、渡井佳代子句集『椰子の木』が紹介されている。 繭玉の揺らぐは座敷童とも 笹鳴きや折あるたびに開く文 バイブルを開く神父や小鳥来る 夫の赴任地フィリピンで俳句と出合い、帰国後「狩」で学んだ著者の第一句集。 夕方にお客さまお見えになられた。 俳誌「野の会」主宰の鈴木明氏。 そしておなじく「野の会」編集長の鷲(おおとり)ケイジ氏と、同じく「野の会」の伊東宏恵さん。 今日は鈴木明主宰の新句集のご相談にお見えになられたのだ。 いろんな資料本をご覧になられた鈴木氏は、おもいもかけない本を見つけられすごく気に入られたのだった。 「これがいい。こういう本を作りたい」と即断された。 どんな本であるか、いまのところ内緒である。 わたしはいまからワクワクしている。 鷲ケイジ氏(左)、鈴木明氏、伊東宏恵さん(右)。 「一度はうかがってふらんす堂さんはどんなところか、知っておきたかったからね」と鈴木氏。 杖をつきながら二階への急な階段を上って来てくださった。 鈴木明主宰、鷲ケイジさま、伊東宏恵さま、 今日はありがとうございました。
by fragie777
| 2016-04-25 23:23
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