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11月18日(水) 金盞香(きんせんかさく) 旧暦10月7日
しかし、よく分からない取合わせである。 赤瀬川原平らがかつてとなえた〈超芸術トマソン〉というにはいまひとつか。。。。 この象のかわいらしさと、やや古びたKEY COFFEEの絶妙なありよう、わたしは気に入っている。 見れば見るほど、この二つの到底あり得ない組み合わせ、 わたしには、一つの奇跡のようだ。 (と、思うのはわたしだけか、、、、、) 文芸評論家の井口時男氏の句集『天來の獨樂』(深夜叢書刊)が静かな反響を呼んでいる。 わたしも寄贈に預かったが、井口氏には、句集刊行の前の約一年ほどまえ(だったと思う)に光部美千代さんの句集『流砂』のことでご丁寧なお手紙をいただいていた。手紙とともに井口氏が発行されている同人誌が同封されており、そこに光部美千代さんとの出会いが書かれ、そして、その光部さんを通して俳句に出会ったということも記されていたのだった。この度の句集『天來の獨樂』には、「光部美千代さんを悼む」という文章も収録されている。教員時代に光部さんと出会い、彼女の指導する句会に参加しそこで始めて作句をする。彼女がいなければ、あの愉快な句会がなければ、私は句作の面白さに触れることもなく、三十年後に俳句をつくることもなかったことになる。。光部美千代さんがすでにこの世にいないという衝撃に耐えながら井口氏は彼女の句集二冊を読みこんでいく。そして、なるべく多くの方に光部さんの世界に接していただきたい。そして、私とともに、このすぐれた才能を哀惜していただきたい。と書き、俳句を紹介する。最後にこう書きしるしている。光部さん、あなたは教員時代の私の数々の愚行の目撃者の一人だった。わたしは、やっぱり、もう一度愚行を冒したい。あなたの句の傍らに、わたしの粗雑な句を添えておく。かなたへ返す谺のつもりだ。三十年前の職員室のように、隣にバカな「井口サン」が座っているのだと思って勘弁してほしい。 (隣る世の音もまじりて滝落つる 美千代) 春燈や隣る世の灯もともるごと (うつし世に我を佇たしめ花ふぶく 美千代) 後の世も花はふぶくかグラス冷え 句集『天來の獨樂』については、東京新聞の「大波小波」や毎日新聞の書評で取り上げられている。時代に媚びない野武士のような地道な文芸評論を書き続けてきた井口だが、読んでみると俳句が実によく似合う。。これは東京新聞の「大波小波」の「狛犬」氏の評。そして毎日新聞は橋爪大三郎氏による書評。タイトルは「置き換え不可能な個人の実存刻む」。力の入った書評であるが、一部のみ紹介したい。 わずかな字数の言語表現を人びとが受入れる仕組みは、表層で言えば、まず、季語である。だが、根底では、置き換え不可能な個人の実存、すなわち死(を含む生きることの全体)である。松尾芭蕉は死を覚悟して旅立った。彼の詠んだ句が強い喚起力をもち、定型となった。以来俳句は、そうした人びとを喚起し続けてきた。自分もその一人として、個的で置き換え不能な一回限りの表現を、実存の奥底からの叫びとして、誰とも知れぬ人びとに届けよう。そうした伝統が日本の詩型式として定着しているのは、奇跡のようなことであると思う。 わたしは井口氏の句集をいただいたとき、井口氏をとおして光部美千代さんがその作品とともに甦ったようで嬉しかった。人と人を結びつける俳句の力をも思ったのだ。 まだ云はずもう云へぬこと落葉踏む 井口時男 「俳壇」12月号では、連載「本の庭」で神野紗希さんが、飯田冬眞句集『時効』を紹介。 抒情の資質を持つ作者が、俳句に吹く乾いた風に涙を乾かしつつ、ぽつりと呟いた、そんな句が並ぶ。 海鳴りや父の帰らぬ雛の家 時効なき父の昭和よ凍てし鶴 父といふ逃水にまた靴履かせ 裏表なきせんべいの母の日よ 四句目は母とせんべいに喩を見出す。 風船を手離すやうに引越しす 蜃気楼の消え果てし空イルカ飛ぶ 犬捨てに虹消ゆるまでペダル漕ぐ イカロスの翼のかけら天道虫 眠れぬ夜雪の匂ひの水を飲む 生々流転は世の常という奇妙な明るさに、行き場のない切なさは募る。イカロスの翼だった記憶、雪だった記憶を、天道虫は、水は、覚えているか。 よく笑ふ日よ置きごたつ買ひに行く 今朝のテレビ番組のニュースクロスでのコメンテーターの田中康夫さんの紹介していた作家のことが気になっている。 パレスチナ人の作家、エドワード・サイードだ。そしてその書物『オリエンタリズム』。 ちょっと前に知り合いが口にしていた作家だ。 読むには体力がいりそうだなあ、、、、、、
by fragie777
| 2015-11-18 19:33
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