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10月25日(日) 旧暦9月13日
首がはりがねのように細く長い。 「わかったわよ。長い首でいいわねえ」と鷺にむかってわたしは呟く。 わたしの首、実はあんまり長くないんだ。。。。。 先週末に現代俳句文庫29『池田澄子句集』の再版が出来上がってくる。1995年に初版を刊行してより、再版を重ね今回は7刷となる。いま、池田澄子さんはNHKのテレビに出演されていることもあると思うが、この句集は本当によく注文がくる。テレビ出演の前からよく動いていたから、あながちテレビの影響だけでなない。ふらんす堂の人気句集である。 レタス沢山洗い遅日の手がきれい 鬱病の兄の正座よおジャガの芽 元日の開くと灯る冷蔵庫 蒟蒻はとわにふるえて春の雪 蓬摘み摘み了えどきがわからない 前の方の頁をひらいて台所にあるものを題材にした俳句を拾ってみた。 本当に身近なものたちばかりであるが、どこかはっとさせられる。 そしてそのはっとがいつまでも新鮮だ。 しかし、じつはわたしたちにも 『池田澄子句集』ばかりがどうして売れるか、わからない。 ほかにもたくさんの良い句集があるのに。 池田さん教えて、って言っても、きっと池田澄子さんは、 「そんなことわたしだってわかんないわよ」ってさらっと言うだけだろう。きっと。 生きるの大好き冬のはじめが春に似て 俳句をつくったことのない人もこういう句に出会ったとき、そっとやさしく励まされているような気がしてくるんじゃないだろうか。。。。 かじかんでいた心が解きほぐされていくような。。。。 さむいさむいと夜が好き雪が好き もうすぐこういう季節がやってきますね、池田澄子さん。 「週刊俳句 Haiku Weekly」の関悦史さんによる水曜日の一句は、矢島渚男句集『冬青集』より。 花が咲く昆虫館の虫たちに 矢島渚男 自然状態の昆虫たちではない。人工の建物に密集させられた虫たちである。伊藤若冲の群鶏図のような、多くの個体がひしめく過剰さの美が出てくるのはそこからだ。 モチーフにもともと過剰さがあるためか、上五は「花が咲く」という無愛想な言いようだが、ここは言い回しで美化する必要はない。人に愛でられるものとしてではなく、機械のように反復されるものとしての自然の営みがそこから立ち上がるからである。 昆虫というのも生き物の中ではヒトから遠い分、感情移入のしにくいものであり、意思疎通にいたってはほとんど不可能。こちらも機械に近い別次元ぶりである。 つまりこの句は、観察用に集められた虫の群と照らし合わせることで、花からも機械的な相を引き出し、その上であらためて生命感を一句に充満させている。見慣れたものが見慣れぬ相であらわれると「不気味なもの」となるが、花が咲くという営みも、見ようによっては不気味なものではあろう。 その花と虫たちの生命活動は、しかし人工物のガラスやコンクリートで隔てられている。 ここから連想はミシェル・カルージュの奇書『独身者の機械』へ飛ぶ。 これはカフカの『変身』やジャリの『超男性』、デュシャンのガラスを用いた立体作品『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』などから、花嫁に決してたどりつかない独身者たちの空転する欲望という説話論的類型を導き出した、それ自体がシュルレアリスティックな本だが、この句に見られる「花」とガラスで隔てられた「虫たち」とは、ちょうどジャリやデュシャンの作品の、「花嫁」とガラスで隔てられて蠢く「独身者たち」に、そのままかさなりあって見える。昆虫館の外で花が咲いたところで虫たちには関わる術はないのだ。 そうしたシニカルさや不毛さを裏面に忍ばせながらも、一句は有季定型・花鳥諷詠的な生命礼賛の立場を崩さない。「花」と「虫たち」は分離されているどころか、「昆虫館」の壁をものともせずに感応しあっているようだ。 この句において徒労のすえの破滅にいたるのは独身者であるはずの虫たちではなく、昆虫館を作ったヒトなのかもしれない。ヒトが存続しようがしまいが生命は存続する。滅亡後の目から見る生命の美しさと不気味さ、そうしたものがこの句ではいわば見せ消ちにされている。 このブログを書いている途中で小さな地震があった。 コワイな。 書き上げたので早々に帰ろう。
by fragie777
| 2015-10-25 17:32
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