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10月12日(月) 体育の日 旧暦8月30日
目の前をさっと過ぎってとまった。美しい鳥だ。 リスといっしょに放し飼いの柵のなかにいた。 午前中より仕事場にいたのだが、やはり疲れていたのだろうか、いつの間にか眠ってしまった。 新刊紹介をしたい。 小澤佳世子句集『葱坊主』(ねぎぼうず)。 著者の小澤佳世子(おざわ・かよこ)さんは、1973(昭和48)年東京生れ、2001(平成13)年俳誌「知音」入会、2007(平成19)年「知音」同人となる。本句集には西村和子代表が序文を、行方克巳代表が帯文を寄せている。西村代表が指導する「ボンボヤージュの会」で主に俳句を学ぶ。 佳世子さんが初心者句会「ボンボヤージュ」に入って来たのは、二〇〇一年のこと、まだ二十代の娘さんだった。昼間はお勤めがあるので、夜の部に入会し、毎月熱心に通って来た。彼女の句に最初に注目したのは、 待ち合はすふりして座るポインセチア ポインセチアが飾られる頃、街はクリスマス気分に満ち、街頭や店内も恋人どうしや人待ち顔が目立つ。一人で喫茶店に入った時の心持であろう。窓際の席や、店内を見渡せるいい席に座るのは何となく気が引けるようなことがある。そんな微妙な女心を言い得ている。 「ふりして」というのだから、待ち合わせのために入った店ではない。でも、気持をひき立てて、ポインセチアの明るい席に座った。もとより人を待っているわけではないので、いつまでも向いの席に来る人はない。ちょっぴり淋しさを感じさせるのがこの句の魅力でもある。 西村さんはその序文で、「微妙な女心を言い得ている」と書くがまさにその通りだ。 小澤佳世子さんは、まことに率直な人だ。かっこつけたり気取ったりしない、俳句を通してそのことがまっさきに伝わってくる。ときにはこんなに正直に言っちゃっていいの、って驚かされる。しかしそれが新鮮なのだ。 春の風邪見せつけ家事を手伝はず 万愚節祖母には見ゆる庭の人 花嫁となる首筋の汗疹かな 独身てふ肩の荷下りて星祭 鰯雲父とも母ともけんくわして 笹子鳴くおなかの中に誰かゐる 春昼の安産祈禱師の美男 乳張つて爆発しさう蒲団干す 春の月我を褒めるは我ばかり チューリップ散りすべり台つまらなく 三時から青葉若葉の力湧く 天高し保守的な吾飛んでゆけ 父母の下の独身時代から結婚子育てという時間が俳句に詠まれているのだが、俳句を詠む小澤佳世子さんはまことに日常を正直に掬いあげる。感情を詩的に屈折させないというのか。母乳で乳房がはって「爆発しさう」だったのはまさにその通りなんだろう。「蒲団干す」がリアルだ。どの季語もみずみずしい。 日焼してクリームパンのやうな手よ 怪獣の声もて泣くよ風邪の子は 笑ふ夢見てゐる顔の風邪治る 『葱坊主』はまさに子育て春秋における佳世子さんの奮闘記である。まことに子供というテーマは身近であってこれほど興味深いものはない。 行方克巳さんは帯でこのように書く。生活の一こま一こまがすべて俳句になる小澤佳世子さんだ。子育ての日々を俳句に詠むことは、そのまま作者の生きる軌跡だ。成長する子供たちを描くことは、とりも直さず母親としての自分を見つめることだ。と書くのは西村和子さんだ。また、著者には、初心の頃から把握のしっかりした、感覚の鋭い作品があるとも。そして、西村さんはこの句の鑑賞をもって序文を結ぶ。 夫あれば夫ゐぬ不安かいつむり 独身の頃には思いもよらなかった感情である。ひとりぼっちで気ままに泳いでは潜っているかいつむりのように、一人でいることをむしろ楽しんでいたものだ。ところが結婚して何年も経つと、夫がそばにいることが自然な状態となる。「夫あれば」とは、夫があるので、という境遇を表わす確定条件の表現だ。「夫ゐぬ」とは、仕事や用事で不在ということではなく、当然傍らにいるはずの時にいないという状況である。その折の不安に気づいた時の句。 既婚女性の誰もが抱いたことのある感慨をわずか十七音で言い得たのは、かいつむりという眼前の季語に、過去の自身を投影しているからだ。二人の子育てにふり回されている最中の作者が、こうした自分の心のうちを見つめ、表現することができたのは、俳句がまぎれもなく自分のものになった証だ。そのことを作者と共に喜びたい。 ほかに、 花石榴落ちたる枝に星残し 泥濘を摑み上げたる鶴の足 春の空乗せて来たりし新車かな 自問自答くりかへしては椎匂ふ 春の昼指揮者空気を抱くごとく 散るといふより溶けてをるつつじかな 地下鉄の柱息づく暑さかな 火祭のまなこしよつぱくなりにけり ガムの味なくなりにけり神輿待つ 西瓜の種蹠にくつつけ眠りをり 石畳目地濡れ残る風の盆 革手袋くらげのやうに落ちてをり わがままな強情な髪洗ひけり 子を抱いて夫のしやがめる鳳仙花 子の声は母に聞こえて燕の子 秋の蝶つかまり立ちの目が追ひぬ 春炬燵から異次元へおもちや消ゆ 梯梧咲き怒りが怒り呼びにけり 可愛がるつもりが泣かせ猫じやらし 更衣元気に白を汚しけり 端居して頭の中の白き闇 どんぐりを右手に一つ左にも それまで私は俳句から遠いところにいましたが書道で俳句を書く機会もあり、通信指導なら続けられそうだとお試し気分で入会しました。しばらくして「一度ボンボヤージュ句会に顔を出して下さい。」と西村和子先生からのお言葉が添えられていました。句会の事情もわからずに出向くうち、美しい季語だけでなく、身のまわりには多くの季語が存在し、何か宝物があちこち転がっている様に思えてきたのです。そして俳句は一人の様で一人ではなく、見えない心も映し出す不思議な魅力がありました。(略)結婚・出産・子育てと環境が変わりましたが、日常のことに眼を向けるという点では、かわりありません。下の子を連れて久し振りに出席した句会に空白の時間の長さと短さを感じました。 「あとがき」の言葉を紹介した。 本句集の装丁は和兎さん。 くせつ毛のもさもさ頭葱坊主 句集名は「葱坊主」。 図案化された葱坊主である。 『葱坊主』は楽しい句集だ。クスリって笑ってしまう。 すでに紹介したけれどいくつか。 春昼の安産祈禱師の美男 安産祈祷をしてくれている男性がよっぽどいい男だったんだろう。心は生まれてくる赤子のことより目の前のイケメンに捕らわれてしまっている。いやいやいい男に祈ってもらえればイケメン男子が生まれてくるか。胎教にもいいはず。春のうららかな日差しに溢れて。 天高し保守的な吾飛んでゆけ これも好き。こういう率直さっていいわあ。こんな風に俳句に詠んでじゃっていいのということを小澤佳世子さんはあっけらかんと詠んでみせる。秋晴れの空だからこそ気持いい。 昨日と今日の船団ホームページは、坪内稔典さんによって、尾崎淳子句集『只管ねむる』より。 秋の夜機嫌よければそれでよい 尾崎淳子 句集『只管ねむる』(ふらんす堂)から。うん、そうだ、そうだと相槌を打ちたくなる句。機嫌がよいのは最高の幸せ、という気分が私にはある。 淳子さんは1940年生まれ。私が講師をしていた大丸フォーラム(デパートの大丸がやっていたカルチャー教室)にやってきたのが2000年、それ以来の付き合いである。 おっぱい山見える教室秋高し 尾崎淳子 句集『只管ねむる』(ふらんす堂)から。いいなあ、こんな教室。つまり、おっぱい山の見える教室がとてもよい。学校の教室でもカルチャー教室であっても、おっぱい山の見える教室は楽しいだろう。皆、生き生きしているにちがいない。現代の俳句には「おっぱい山」を詠む句なんてほとんどない。おっぱい山こそ楽しいのに。 今日の「増殖する歳時記」は清水哲男さんによって、俳句日記2014 小川軽舟句集『掌をかざす』より。 晩秋や妻と向きあふ桜鍋 小川軽舟 句の生まれた背景を日記風に綴った句集より、本日の日付のある句。俳句は日常のトリビアルな出来事に材を得る表現でもある。言ってみれば、消息の文芸だ。読者はしばしば作者と同じ季節と場所に誘われ、そこに何らかの感慨を覚える。むろん、覚えないこともあり得る。作者によれば、妻と桜鍋を囲んだのは「みの家」だそうだが、この店なら違う支店かもしれないが、私もよく知っている。久しぶりの妻との外食だ。考えてみれば、妻と待ち合わせての外食の機会はめったにない。どこの夫婦でも、そうだろう。だから久しぶりにこうして外で顔を突き合わせてみると、ちょっと気恥ずかしい感じがしないでもないけれど、お互い日常的に知り抜いた同士だからこその、なんだか面はゆい感覚が良く出ているのではあるまいか。「さあ、食うぞ」という友人同士の会合とはまた一味も二味も違う楽しさも伝わってくる。『掌をかざす・俳句日記2014』(2015)所収。 この俳句日記2014 小川軽舟句集『掌をかざす』は、評判がすこぶるよい。 会う方々から、「小川さんの俳句日記、面白かったですね。」と言われる。 「俳句だけでなく文章をともに読む面白さがある」とも。 こんな風に反響があるってことは、まことに嬉しいことだ。
by fragie777
| 2015-10-12 19:28
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