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8月26日(水) 旧暦7月13日
今日の寒さには驚いた。 さて、何を着たらよいのだろうか。 クローゼットの前でしばし固まってしまった。 どれも向こう側が1㎞先まで透けて見えそうな服ばかりである。 仕方がないから黒のタートルネックのTシャツに白のワイシャツの重ね着をした。パンツは木綿の黒。夏の間は裾を折り返して穿いていたが、裾をもどす。 そのまま外に出たら、まだ寒い。 急いで戻り、薄手のグレーのレインコートをはおって、 (まっ、こんなものか……) と一人で呟いていたら、一部始終を愛猫のヤマトが見ていたのだった。 毛皮を身につけている彼女らこそ、この天候府不順にどう対応するんだろう。 「お察しするわ」 とヤマトに言って、わたしは家をあとにしたのだった。 24日の讀賣新聞の仁平勝さんによる「俳句月評」では、『野澤節子全句集』について、丁寧な評をほどこしている。タイトルは「『ウソ』で日常の飛躍」。 『野澤節子全句集』(ふらんす堂)が、没後二十年を記念して出版された。野澤節子には俳句的抒情の究極がある。読み進めながら、あらためてそう思う。 春昼の指とどまれば琴も止む 天地(あめつち)の息合ひて激し雪降らす 春暁をまだ胎内の眠たさに せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ など、俳句に抒情は適さないといった一般論は通用しない。 一句目は、映画なら指のクローズアップからカメラが引いて、ロングショットになるところだ。ただし、「春昼の指」は、映像では表現できない。これを俳句固有のフィクションといってみたい。 二句目は、「激しき雪」ちいってしまえば単なる自然描写だが、ここで「激し」は雪の形容ではない。中七の切れには、作者の心情が投影されている。 三句目は、だれも「胎内の眠たさ」など知らないのに、春暁の夢見心地と重なってリアルな既視感を手に入れた。「春暁をまだ」という入り方と、「に」で言い止める省略が効いている。 四句目は、髪を洗って眼が濡れるのを、ことさら「眼まで濡らし」と表現した。それが涙を連想させる。また、洗髪を「せつせつと」と詠んだ例をほかに知らない。この一語に、言葉ではうまくいえない哀しみが詰まっている。 俳句は日常生活を多く題材にするが、そこで日常から飛躍しなければ詩にならない。飛躍にはフィクションが必要になる。ちなみに季語というのは、そのフィクションを代表する仕掛けだ。 ほかに矢野玲奈句集『森を離れて』(角川書店)にふれて、「ここでは、フィクションとしての季語がうまく使われている」と記し、「江ノ電の一駅分の時雨かな」なんてちょっとした名句かも。ようは「一駅分の時雨」という小さなウソ(フィクシュン)がうまいのです」と。 今日はお客さまが三人いらっしゃった。 俳誌「沖」の能村研三主宰と編集スタッフの千田敬さん、林昭太郎さんである。 「沖」は今年の十月に「創刊四五周年」を迎えられる。 その記念行事の一環として、「季語別沖選句集」が刊行される。 目下その編集をふらんす堂でおすすめしているのだ。 担当はPさん。 俳壇のいまの状況下では、それぞれの俳句結社は会員が減少傾向にあるが、「沖」は研三主宰の熱心な指導が功を奏して、会員が増えつつあるという。 俳誌「沖」の紙面も気合いがはいったものになっている。 「季語別沖俳句選集」には、能村登四郎、林翔をはじめこれまでの「沖」に名をつらねた多彩な俳人たちの作品が収録されている。結社の枠を超えた魅力ある歳時記となることおもう。 十月刊行をめざして、ふらんす堂もスタッフ総動員でそれに取り組んでいかなくてはならない。 能村研三主宰は、第七句集『催花の雷』を角川学芸出版より上梓されたばかりである。 この句集も評判がよく、いよいよ充実の俳句結社「沖」である。 能村研三主宰、千田敬さま、林昭太郎さま。 今日はご足労いただき、有り難うございました。
by fragie777
| 2015-08-26 19:14
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