カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
8月25日(火) 旧暦7月12日
昨日の写真のへんなヤツ、 ツマキシャチホコ という蛾であるとのこと。 素描家のしゅんしゅんさんがさっそくメールで、そして関悦史さんがツイッターで教えてくださった。 もちろん名前を知っていたふけとしこさんが、「中学生の頃見て以来でした。懐かしかったです」と今日メールをくださり、写真を喜んでくださった、。 しかし蛾などは大っ嫌いという人もいるので見せられて嫌な思いをした方にはごめんなさい。 でも、こうして蛾の名前をひとつ知るということも、世界がその分だけすこし広くなったような気がしてくる。(すぐ忘れちゃうんだけど……) いきものに限らずわたしたちをとりまいているさまざまなものの名前をたくさん知っていることは素敵なことだと思う。 こういうへんてこな虫の名前をちゃんと知っているということはその人を豊かにはぐくんだ時間を感じさせる。その名前を覚えたとききっとその人の時間はキラキラと輝いていたんだろうって、思う。 新刊紹介をしたい。 石井美智子句集『峽の畑』(かいのはた)』。 著者の石井美智子さんは、1954年秋田県秋田郡五城目町に生まれそこで育ち現在に至る。2004年に俳句を始め、2010年「風土」入会、2012年に「風土」同人、2014年「風土新人賞」を受賞されている。10年の節目としてこの度の第一句集を上梓された。小林輝子さんの跋文の冒頭の文章が著者をよく語っているのでまず紹介したい。 水打つて朝市店を仕舞ひけり 石井美智子さんの生れ育った秋田県南秋田郡五城目町は朝市が有名な町です。能代市と秋田市の中間にあり、西は八郎潟、東は阿仁またぎの里のある山間部があり、昭和年代までは鍛冶を職業とする人々、又は桶づくり等の技術を持つ人々が多く居住していた町でした。朝市は海の物山の物、農具などが並べられ賑わっていました。 私も五城目に行くときは市のある日を確かめてそれを楽しみに車をとばします。 美智子さんは平成二十六年、満六十歳をもって四十三年間にわたる看護師の職務を退職されました。平成十六年より俳句をはじめられ、十年と云う節目である平成二十六年までの作品を定年退職をするにあたり、ご自身へのご褒美の意味も含めてまとめられたものと推察いたしました。 不死鳥の白衣の天使煌と朱夏 神蔵 器 神蔵主宰の句集に寄せららた序句である。「不死鳥の白衣の天使」ということばが、看護婦としてその職務を全うされた石井美智子さんを讃えるものであることがわかる。「煌と朱夏」が美しい。 「峡の畑」と題された本句集はその名のとおり山峡での暮らしぶりを詠んだ句集である。 何もなき村いちめんの稲の花 粕汁に魚のあらを掬ひ合ふ 籾殻を拭ひつつ出す寒卵 赤とんぼ引き連れ移動販売車 古釘の余りし軒の懸大根 山国の暮しが生き生きと詠われています。 何もない村の中、でも稲の花が一面に咲いているところに目をつけ、粕汁の魚のあらを掬い合う睦まじい暮しの様子。産みたての卵についた籾殻を拭いながら出すなど、どの句も作者の身のまわりの生活の中より素直な心でとらえた句なのです。 除夜の鐘撫でて制服仕舞ふかな 句集の最後の一句は制服を仕舞う句でした。除夜の鐘を聞きながらのこの一句、「万感胸に迫る」作者の思いが伝わって胸が熱くなりました。 小林輝子さんの跋文より抜粋して紹介した。小林さんは、岩手県和賀郡西和賀町という著者とおなじ東北地方の自然豊かなところにお住まいである。石井美智子さんの俳句のなによりの理解者である。 栞を寄せられた神野紗希さんのタイトルは「峡をはなれず」。この質朴な句集の魅力を新鮮な視線でとらえて見せた。抜粋して紹介したい。 星散の峡の灯や晦日蕎麦 晦日蕎麦の風景として、これほど静謐で美しい風景を私は知らない。美智子さんは、峡の村という個別の風土から詠み続けることで、季語に新しい命を吹き込んでいる。星を散らしたような峡の村の灯の、冴え冴えとした一つ一つに、晦日蕎麦を啜る人の今があるのだ。 吹かれても草を離れず秋茜 秋茜が草にしがみついている。風に従えば楽かもしれないのに、この秋茜にとっては、この草が大切なのだ。意志を見せる秋茜に、また作者の気持ちが重なる。「おいてけぼり」と思った日もあったけれど、いつしか「吹かれても草を離れず」ここに立つ自分に気づいた。〈この先も峡の暮しや恵方道〉と詠む美智子さんは、恵方道の先の未来を見据えている。峡を離れず、風に吹かれながら、彼女はこれからも詠み続けるだろう。 風と日と集ふ峡畑土筆摘む 春疾風おいてけぼりの竹箒 田の神に会ふ早乙女の野良着かな 峡の田に魚流れ着く秋出水 杣へ行く父の面影喜雨の中 春泥をつけて三和土に母の杖 落栗の一粒峡の日の匂ひ 大鍋のひとつに足りる女正月 桜餅デイサービスの三十人 峡の空鳥よりひくき冬の雲 供花を選る墓所の残雪思ひつつ 手のひらの風にほぐるる蕗の薹 青ぬたや山より雨の走り来る 峡の畑星の形に瓜の花 田水沸く無口は父に倣ひたる 枕辺に本と眼鏡とちちろ虫 車座のござに村の名うまごやし たこ焼をくるりくるりと春迎ふ 苗札やひとつ向かうの畝に母 葛の花だんだら畑に寄せ来る 残菊や日差し逃げゆく峡の畑 煮凝りや父の写真に上野駅 「あとがき」には心打たれるものがある。 山間の小さな村に生を受け、六十年の歳月が過ぎました。行く先はこの地を離れ、何にでもなれる、何処へでも行けると信じていた稚い日々が今ではただ懐かしいばかりです。 しかし、何処へも行けないまま同じ地に暮しています。なぜと問われると自分にも分かりませんが、四十年間勤めた看護職を辞したのを機に今までの拙い俳句を整理したところ、その十年分の俳句のなかに答えが見えたように思いました。この先もまた峡の畑を耕し、いささかの夢を持ちながら暮して行けたら幸いと思っております。 句集を編むこととおして、ふたたび自身と出合い自身を育んだ「峡の空」と出会ったのである。 そして、未来とも出会ったのだ。 装丁は和兎さん。 絣模様をおもせるものだが、句集の純朴な味わいを引き出せただろうか。 古暦外して白きひと間かな わたしはこの一句に立ち止まった。 なんということもない句かもしれないが、わたしには不思議な時間と空間が見えてくる。 歳末に古い暦をはずした。 過ぎてきた時間に彩られた暦である。新しい暦はまだ掛けられていない。 暦というものがもつ呪縛から解き放たれて、ふっと時間から自由になったときその場は色彩をうしなった。 どこにでもいけるようなニュートラルな時間が出現した。 著者がすでに失ってしまった何にでもなれる、あるいは何処にでもいける、タイムスリップできるような白き空間が出現したように一瞬おもえたのだ。 しかし、きっとすぐに新しい暦が同じ場所にかけられるのだ。 そしてふたたび白きひと間は彩りを得て、山峡の闊達な暮らしがはじまるのだろう。 いつの間にかみんな帰ってしまった。 讀賣新聞の紹介記事は明日にしよう。 もう帰ろう。 近くのスーパーに立ち寄っていつものように買い物をしようと思うのだが、このところ買うのが水とワインばっかり。 (この人、水とワインしか買わないけど、ヘンよね) って思われてるんじゃないかって、レジにそれを持って行くときドキドキする。 いつも遅いからレジの人が決まっているように思えるのよ。 自意識過剰だっておもうけど。 (お野菜や肉や果物などは「大地の会」で買ってます。ワインばっか飲んでるんじゃないのよ)ってこころの中で一所懸命いいわけをしている。 ホント、おばかさんでしょ。
by fragie777
| 2015-08-25 19:55
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||