カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
8月3日(月) 旧暦6月19日
夕方になってにわかにお腹が空いてきた。 手足がだるく、ふらふらし甘いものが食べたくなった。 そのことをスタッフに訴えたところ、 「血糖値がさがっているんですよ」って言われた。 「あら、じゃ甘いものを食べましょう」ということになって、いただきもののお菓子をつまむことにした。 お客さまからいただいた「マカロン」があったので、さっそくそれを一個ずつみなでいただくことにしたのだった。 すると若いスタッフの文己さんは、「まだマカロンを食べたことがない」という。 「おお、それじゃ感想を聞かせて」とひとりずつ好きな味のマカロンをとった。 緑さんはチョコレート、Pさんはキャラメル、わたしはアールグレー、文己さんはストロベリー。 で、みんなで仕合せそうに夕方のおやつをいただいたのだった。 「どう?」って文己さんに聞くと、 「すごーくおいしいです!」ととろけるような笑顔だった。 なんという笑顔。 きっとマカロンも、文己さんに食べられて仕合せだっただろうなあ。 (わたしのアールグレイも抜群に美味かった!) 有馬朗人著『ゆっくり行こう』を少し紹介したい。 A6判フランス装。164頁。ふらんす堂文庫 物理学者として教育者として俳人として超多忙な著者のエッセイ集である。 有馬朗人氏の忙しさは並大抵なものではない。 その活躍は日本にとどまらず世界的であることは周知のことだ。。 その多忙さにも関わらず、折にふれては書かれてきたエッセイを一冊にまとめたのが本書である。氏の興味の範囲の広さと深さを知ることのできるエッセイである。 これらの文章を書いてから既に一五年以上経ってしまった。私も当時は六〇歳台の後半であり、まだまだ若く将来に希望を持っていた。その勢いにまかせて言いたい放題なところもあるが、それなりの発想もあって、こんなことを考えていたのか、今ならどうだろうと思いながら読みなおしてみた。この本を手にして下さる方々がどう御感じになるか、お伺いしたいものである。 「あとがき」の言葉である。 本書から「芸の学び方 教え方」と題したエッセイより少し紹介したい。 もう三年以上も前になるが、文部省の中央教育審議会など教育関係の審議会の会長たちの会合で、江崎玲於奈さんや三浦朱門さんと、科学者や小説家の「素質」と「努力」について雑談をしたことがある。別々に聞いたにもかかわらず、一つ共通した考えが示されて興味深かった。 自然科学で独創的な仕事をする人は、生まれつきの素質がなければならない。その上に良い教育でその素質を十分に育てることが必要である。人の能力は素質×教育だ。これが江崎説である。三浦さんは、小説を書ける才能は天与与のものであると言う。極めて優れた二人の説であるので私も否定しようがないが、ただそこに努力というものを私はつけ加えたい。そこで私は江崎説と結びつけて、 能力=a素質×教育+b努力 という式を立てた。私は、自分自身がいま持っている力は、ほとんど努力の結果だと思っているので、この式の第二項bを大切にしたいのである。 このような図式を立てるところがいかにも物理学者らしく面白い。 では、文芸における基礎・基本とは何であろうか。また、それを学ぶ方法はどのようなものであろうか。もちろん一言で文芸といっても非常に広く、それぞれの分野で事情は異なっている。それでこのような話に及ぶ時、私はいつも世阿弥の『風姿花伝』を思い出すのである。そこには七歳から始めて五十歳前後までの能楽の学び方が書いてある。 そして『風姿花伝』を要約して紹介しているのだが、 俳句にこれを応用してみると、よくあてはまる。もっとも年齢のところは変えて、六十であろうと幾つであろうと、まず初めのうちは勝手にやって楽しむ。 次いで三年ほどは型をきちんと学ぶ。例えば季語を覚え、切字の使い方を学ぶ。その後は常に俳句を続けることが大切である。 継続は力なりとよくいわれるが、その通りである。生まれつきの才能はあったに越したことはない。しかしそれ以上に努力だと私は思う。これは凡人たる私のいつわらざる気持ちである。 「一期の堺ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。ここにて捨つれば、そのまま能は止まるべし」(『風姿花伝』)より。 稽古すなわち努力である。 自らを励ます言葉であり、また他者を励ます言葉である。
by fragie777
| 2015-08-03 19:46
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||