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6月18日(木) 旧暦5月3日
「白紫陽花」の花言葉ってなに? 乙女な(?)yamaokaはふとそう思った。 花を見て「花言葉」を思い出して、キュンってするほどすでに乙女じゃなくなっちゃっているんだけど、白紫陽花のこの写真をみていたら、なにかなって思ったのだ。 知ってます? 花言葉。 調べてみたら、 なんと、 「寛容」 ということです。 おお、これはまさに寛容を自認しているyamaokaにふさわしい花ではないか。 などと思ってみたが、ちなみに「寛容」について、広辞苑を引いてみた。 三つの意味がある。 ①寛大で、よく人をゆるし受け入れること。咎めだてしないこと。 ②他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。 ③異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと。 いやあ、これは「寛大である」ということは、「まっ、いいんじゃないの」っていうのと違って、なかなか体力、精神力を要することだ。とくに宗教における「寛容」ということは、大きな意味がある。キリスト教の重要な要目とあるが、あのパウロのガラテヤ人の手紙などが思い浮かぶが、そもそも「寛容」というのは非寛容的状況の前提があって育ってきた言葉かもしれない。つまり寛容であることが意識される状況=非寛容がなければ寛容は必要とされなかったのかもしれない。 ヨーロッパのキリスト教の歴史をみてみれば、それは非寛容の歴史そのもの、カトリックのプロテスタントへのそれみならず、プロテスタントのプロテスタント急進派再洗礼派(アナバプテスト)への迫害などまさに血なまぐさい非寛容の歴史だ。 いやそもそも歴史とは非寛容の繰り返しであるのかもしれない。 などと書いてきたら、胸が熱くなってきてしまった。 いや、わたし、すこし頭に血がのぼってきてしまったのかもしれない。 落ち着こう。 この白紫陽花の柔らかなふくらみ、、、、、 「寛容」であるということ、 それは、とてもむずかしいことだ。 ここで閑話休題。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、平岡公子句集『文の数かず』より。 山住みは桶に二尺の鰻飼ふ 平岡公子 鰻(うなぎ)は筌(うけ)と呼ばれる細長い竹籠を川底にしかけてとる。とれた鰻は何日も流水で飼って泥や餌を吐かせる。この句の桶にもきっと山水が引いてあるだろう。その底に息づくだろう。その底に息づく青黒いみごとな鰻。1匹とはかぎらない。句集『文の数かず」から。 鰻の季節となる。 鰻が食べたくなったな、、、 新宿でうまい店を二軒ほど知っている。 今度行こ。 わたしが鰻にくらいついている姿をみても知らんぷりしてよ。 寛容に笑ってね。
by fragie777
| 2015-06-18 18:41
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