カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
6月2日(火) 旧暦4月16日
句集の最終的な打ち合わせてご来社された大石香代子さんを武者小路実篤公園までご案内する途中に咲いていたもの。 新刊紹介をしたい。 『原田喬全句集』(はらだたかしぜんくしゅう)。 四六判上製カバー装。408頁 第一句集『落葉松』、第二句集『伏流』、第三句集『灘』、第四句集『長流』、『長流』拾遺の2407句を収録する。解題・年譜 初句索引、季語索引付き。 天山のこと聞かせてよ渡り鳥 父・原田濱人によって俳句の手ほどきをうけた原田喬は、戦後三年間の過酷なシベリア抑留生活後に加藤楸邨に出会い俳句に開眼する。父・濱人を誇り、虚子を敬愛する一方、楸邨を生涯の師と仰ぎ、生活者としての足場を大事にしつつ限りなき高みをめざした孤高の俳人・原田喬の全句集。 以上、帯文より。 原田喬は、大正2年(1913)に福岡に生まれる。父は原田濱人。シベリア抑留体験をへて教職につくかたわら昭和32年(1957)に加藤楸邨を生涯の師と決め「寒雷」に投句をはじめる。昭和50年(1975)に俳誌「椎」を創刊主宰するも、「寒雷」への投句は楸邨死後もかかさず、平成11年(1999)に浜松にて86歳の生涯を終えるまで「寒雷」同人としての投句は続いたのである。 「寒雷」に原田喬あり、と云われ楸邨も一目おいていた俳人であったが、俳壇の表舞台に登場することをのぞまず、浜松の地で誇り高くひたすら俳句をつくりつづけていた俳人だ。本全句集はその原田喬が愛した九鬼あきゑをはじめとする弟子たちによって編まれたものである。 わたしは三度浜松に呼ばれお目にかかる機会を得た。 お目にかかった第一印象は、やせ細った身体に火のような情熱をたぎらせている俳人であると思った。大患後のお身体であり、車椅子の闘病生活を余儀なくされていたとも思う。しかし吐き出される言葉は厳しく、眼孔は煌々として漲る気魄があった。だが、その激烈さとは裏腹に向き合う人間を緊張させないなんともいえない優しさとユーモアをお持ちだった。 原田喬という人間を目の前にしながら、わたしははりつめた青空にすっくと立った一本の冬木を思い浮かべだ。まさにそのようなお方だった。 圧倒的な気魄と限りなり慈しみ。 これまでお会いしたことのないような俳人。 わたしは原田喬という俳人に充分に魅了されていた。 ただし、なにゆえ、わたしが原田喬の元に呼ばれたかは、定かでなかった。たった一人でやっている小さな出版社になぜ原田喬は目を留めたのか。 めんくらった。 あえて言えば多分ふらんす堂の微力さを気に入ったのだろう。 そうとしか思えなかった。 本全句集には、九鬼あきゑ現「椎」主宰による解題が収録されている。つねに喬の傍らにいてその作品に触れまた身体の不自由な喬をささえ、手となり足となって支えてきた方だ。喬がもっとも信頼した弟子である。喬の最高の理解者である。 解題の一部を紹介したい。第三句集『灘』についての解説の部分だ。 のうぜんかづら川は全面うごきをり 鵜はかならずわが前にをり冬の灘 ユーカリをずたずたにして冬銀河 根まで見ゆ春の岬のほんだはら フォッサ· マグナの南端を秋の蛇 荷車を垂直に立て神の留守 くらやみに木は木と立てり盆踊 一月の海まつさをに陸に着く 天の川御身ら我らそのほとりに 晩年や神の驟雨をふりかぶり 人はある年齢になると、現状を肯定し前へ進むことを止めてしまう傾向がある。 しかし、喬はそういう生き方を根本的に否定し、更なる高く深いものを常に求めてきた。自己を厳しく律していく姿勢、ある意味では自己否定を繰り返す姿勢といってもよい。困難であればあるほど前へ突き進む。大手術後、車椅子で熱砂のアメリカ大西部の旅の続きを三回も決行したのはその一例と言ってよい。これらの作品は、どれも気迫がこもって力強く重量感に溢れている。句のスケールも大きい。これは俳句を始めた記念碑的作品「赤城山総落葉して冬来たり」と根はどこかでつながっているようだ。いずれにせよ、これらの諸句は喬俳句の根幹を成すものであることに間違いはない。 以下作品を紹介したい。 しかし、わたしはこの全句集を是非に読んで欲しいと思う。人間探究派に連なる原田喬という俳人の全句集が語る人間像はなんとも魅力的だ。直接詠んでいなくてもシベリア体験を原点に逆境に耐えぬいた屈強なる精神、そして俳諧性。「ものを言わぬ文芸」に徹した潔さ、おもねることのない面構えが見えてくるはずだ。 ずる休みの子に犬ふぐりがもう明るい 曼珠沙華朝の汽笛をふりかぶる 一語湧いてはばたくごとし枇杷むくとき 人送りきしが蜻蛉の翅やはらか ゆるく息してわが影とをり春の月 鵙の天墓みな胸を正しくす 愛耐へよ冬芹滴り滴るよ 枸杞の実を嚙み東京を憎みをり 臼のなかはなにもなかりきほととぎす にはとりの上はまつさを十二月 川は海へしづかにかへる秋の蟬 馬の神に馬のくらやみ雪がふる 界隈の床屋の桃がまづ咲けり 秋桜子にあらず虚子なり葱坊主 桃食つて雨美しと出てゆけり 先生とそれきり会はず秋の海 米はいつも暗く冷たく天の川 鵜はどれも瞼をもてり春怒濤 仏壇をゆすりに来たり青嵐 冬瓜の誰のものでもなくなりぬ はこべらよ雀よ戦後五十年 ふと死んでとはに死んだる春の星 コスモスの種さらさらと火宅かな ふらんす堂から現代俳句文庫28『原田喬句集』が刊行されている。そこに収録されている「楸邨先生との三十六年」より一文を抜粋して紹介したい。 私には草田男は近代的知的すぎた。その裸の姿がすきになれなかった。波郷は聡明すぎた。この人には若くして人生の結論が見えていた。楸邨はちがっていた。自らの句集に『野哭』と名づけた楸邨に私はもっともひかれた。私の戦後の野哭の時代も続いていた。生身の楸邨が惻々と訴えくるものが私にはよく分かった。こうして楸邨を師と選び三十六年間経った。「百代の過客しんがりに猫の子も 楸邨」の猫の子の後ろにつきながら、楸邨を見失うまいと歩いてきた。 喬は楸邨に師事しつつ一方虚子へのゆるぎない敬愛があった。楸邨と虚子、まったく方法論を異にする二人の俳人である。 過日、浜松にて「椎」四十周年と全句集刊行をお祝いする会があり、その記念講演で宮坂静生氏が「戦後俳句の楸邨:喬、そしてあきゑ」と題して講演をされた。 その講演内容が、この喬におけるこの二人の俳人はいかなる意味をもったか、新しい切り口を展開しながら斬新に語って見せたのが面白かった。この講演はきっと「椎」の記念号で掲載されると思うので興味のある方はそれを読まれることをおすすめしたい。 ここでは要約のみを申上げると、初期の句集に直接にはシベリア体験は詠まれていないが、喬の戦後のシベリア体験はその後の俳人としての喬を一生支配したものであると宮坂氏は定義する。そして喬俳句における楸邨的な精神風土への探究をA面として次のような句をあげておられる。 楸邨を探しに出れば天の川 気の狂ふまで翡翠を追うてみよ うらやましきまでにぼろぼろ葱坊主 一方、喬俳句における虚子的な土着風土への発掘としてのB面として 鬼やんま虚子がのこしし眼はも 菜の花や七十九年とはこれか 朴落葉朴より高きところより などをあげ喬における楸邨的なもの虚子的なものをシベリア体験を基軸にして止揚し、その生涯をかけてまとめあげたものが原田喬の俳句なのであると結論する。最後の句集『長流』の掉尾に置かれた一句がそのことを語っていると。 流氷やわが音楽はその中より わたしは宮坂氏の論考を非常に乱暴にここに紹介したのであるから、是非に「椎」掲載されるであろうその論を読んでいただきたいと思う。 ともあれ、『原田喬全句集』は魅力ある一冊である。 装幀は君嶋真理子さん。 表紙を紺にしたのはわたしの希望。原田先生はきっと紺がお好きだと思ったのだ。 全句集より二句をあげたい。 原田喬を充分に語っているとわたしは思うのだ。 生臭き踊子草を捨てにけり わが声を冬の泉にのこしおく
by fragie777
| 2015-06-02 20:17
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||