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5月16日(金)
五月も半ばを過ぎようとしている。 今年にはいって白の木綿のTシャツを3枚買った。 クローゼットの引き出しをあけると白のTシャツがこぞってある。 しかもすべて長袖もしくは七部袖、半袖は着ない。 白のTシャツばかりは、黄ばんでしまうので、いくら物持ちのよいyamaokaとはいえ、もって3年というところだろう。 基本白という色が好きということもあるのだが、色のものを着るとしてもまず白を着るということがほとんどである。ましてや今の季節、青葉若葉に白がもっとも映えるではないか……。 いまふっと思ってしまった。 ふらんす堂の本に白が多いのは、これってわたしの好み!? まっ、いいや。 新刊を紹介したい。 『大阪の俳句-明治編」のシリーズの武定巨口句集『つは蕗』(つわぶき)。武定巨口(たけさだ・きょこう)と読む。解説と年譜は朝妻力(あさづま・りき)氏。 句集『つは蕗』は、巨口の第一句集である。明治45年刊行とあるから彼がほぼ30歳を目前としていたときだ。師の松瀬青々が序文を巨口自身が「石蕗の花」という文章を寄せているがそれはこの本には収録されていない。しかし、巨口という俳人をしる上で貴重な資料となることは間違いない。 武定巨口は、「ホトトギス」門下の松瀬青々の弟子で、青々亡きあと、俳誌「倦鳥」の実質的主宰者となるも、四年半後に五十八歳で亡くなる。明治16年、岡山市の料理屋に生まれ、明治32年、青木月斗を中心とした「鬼百合」が創刊されると投句。その後「京阪満月会」にて青々と会う。のちに、烏人という俳号であったのを青々の命名によって巨口と改名。朝妻力氏の解説がおもしろい。 関西俳壇の黎明期、正岡子規の俳句革新にいちはやく呼応したのが、水落露石、中川四明らによる京都の京阪満月会であった。翌年には大阪満月会が組織され、松瀬青々が参加する。青々はほどなく上京して「ホトトギス」の編集を助け、帰阪して「宝船」を創刊する。子女の不幸が重なる等の事情で「宝船」は廃刊とせざるを得なかったが、翌年には「倦鳥」を創刊し、明治、大正、昭和初期の関西俳壇の雄として君臨した。この松瀬青々門下として実作に励み、青々亡き後、「倦鳥」の実質的な主宰をつとめたのが武定巨口である。しかし主宰に推されて四年半後、巨口自身が亡くなってしまう。五十八歳であった。ここでは「倦鳥」二九九号、武定巨口追悼号等から、巨口の人となりをさぐる。 「巨口の人となり」は、解説によると、、野心がなく、物静かで、消極的で、しかし揺るぎない信念を持っていたということは想像に難くない。とあり、職業は銀行員、銀行員としてはまことに有能であったが、人間に接することが苦手だったともある。巨口に、自身の勤務先である三十四銀行雑喉場支店を紹介した戸田鼓竹の文章によると、 算盤は達者だし、字は綺麗だし、銭勘定は早いし銀行員としての才能は十分持てゐたが、人と物言ふ事が嫌ひであつたから別机の計算係へ廻した。人が終日かかつても合つたとか合はぬとか云ふてる仕事を半日位にちやんと片付けて仕舞つて、知らん顔して読書をしてゐる。 さらに「解説」によると有能な銀行マンで人間嫌いだった巨口は、駆け落ち事件もおこしている。日露戦争にいき、左手首に銃傷を負ってもどった四年後の明治41年のことである。その辺のくだりは、巨口の人となりの別の一面を知る上で面白い。その駆け落ちで東京に出奔し、そこで子規や碧梧桐に就職先をたのんだりしたといういきさつもある。結局若気のいたりということであえなく女と別れて大阪にもどるのである。この辺のことを巨口自身が小説にして俳誌「宝船」に掲載している。タイトルが「凍」ゆえに「凍事件」と呼ばれることになる。 さて、この句集『つは蕗」であるが、俳人の村山古郷はその著書の『明治俳壇史』で虚子が平明を説くきっかけとなった。と評している。どういう句をもってそう評価するのか、俳壇史を読んでみないとわからないが、収録作品よりわかりやすい句をいくつか紹介してみたい。句集は、四季別となっており、新年からはじまり冬でおわる。 初日影田毎の氷動きけり 歌かるた夫婦々々と並びけり 山際の林あかるし春の雨 春の野に三度嫁見るよき日哉 雀子や毛の見えそむる嘴のもと 弁当に蟻のつきたる花見かな 灯すに早き夕餉や藤の花 天瓜粉書写の机を汚しけり 西田圃西へ行くほど蛍かな 尾を以て王たり覇たる金魚かな 一並び蓮の花さく門田かな 湖や軒すれすれの草の露 霧の中門なき寺を抜けにけり 逢坂へ夜食しにゆく夜寒かな とんぼうの夕に死ぬや大文字 角力取を押へて飲ます新酒かな 破芭蕉主ばかりが眺めけり 金柑の尻皆光る小春かな 雪の中に氷柱の見ゆる庇かな 羹を雪の迎へにすゝめけり 紅の紐でしばりぬ古巨燵 手袋の大きな手出す焚火かな からさけと釘同じうす唐辛子 小社に磯のぬくみや冬至梅 「冬至梅」は最後におかれた一句である。 どうだろう、わかりやすく今でもおもしろく読めるのではないだろうか。 興味をもたれた方は、ぜひにこの武定巨口句集『つは蕗』を読むことをおすすめする。 この「大阪の俳人シリーズ」は、「大阪俳句史研究会」が、自分たちの勉強のためのテクストとして刊行を決意したものである。しかし、松瀬青々、永田青嵐、青木月斗などはじめ明治期に活躍した俳人を知るのには格好の句集である。 品切れとなってしまうので、興味のある方は早めにお求めを。 明日から、わたしは出かける予定。 まだ何も支度していないし、 これからワサワサと準備するのよ。 まず、 わたしの猫たちに、ちゃんと言っておかないとね。 ヤマトに言ってから、日向子に、 それからもっと大きな生き物たちに言うのね。 おお、 ブログで書いてしまったことは、 わが家の猫たちにはナイショにね。
by fragie777
| 2014-05-16 20:29
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