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3月27日(木)
今朝はたっぷりと時間があったからではなくて、無理にでも見る時間をつくらないと今年の花を見ることなく時間が過ぎ去ってしまうことがとても悲しいことのように思えたからだった。よく晴れた日の花とはまた違ったすこし重くれた憂鬱を感じさせる白、それもまた白木蓮なのである。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、植竹春子句集『蘆の角』より。 日月の音立てて過ぐ蘆の角 蘆の芽は角のようにとがっているので、「蘆の角」と呼ぶ。春の季語だ。また、蘆が芽ぐむことを「角組む」と言う。今日の句、生命力に満ちた蘆の芽を前にして、歳月の過ぎ去る早さを感じている。もしかしたら、自分の老いを強く意識したのだろうか。「初蝶のひるがへりたるあとの空」も句集『蘆の角』(ふらんす堂)の春子の作。 そしてねんてんの今日の一句は、 榮猿丸句集『点滅』 より。 レジの横に抱きあふ二人春休 うん、こういう2人がときたまいる。蹴り飛ばしたい、と思わないでもない。この句、その2人についてどのように思っているのだろうか。今日の句は1968年生まれの作者の第1句集『点滅』(ふらんす堂)から引いた。「スターリンも靴屋の息子花八つ手」「動物園に糞を見にゆく昭和の日」をとびきりよいと思った。取り合わせが新鮮だ。 わたしは、「スターリンも」の「も」が気になる。靴屋さんの息子である人は世界中にあまねくいるわけだが、この場合の「も」は、ほかの具体的な誰かを想定しているのだろうか、あるいは猿丸さんのお父上がそうなのだろうか、いや、お目にかかったときにそうは言っておられなかった気がする。しかし、「は」ではこの句はいけないように思えて来るから、やっぱり「も」か……。 「スターリン」はソビエト連邦の第2代目の最高権力者だった。いや最高指導者というのか。わたしは「スターリン」という名を、大学に入ってはじめて身近なもの(?)として意識した。というのは、大学キャンパスにはヘルメットを被った男子や女子がけっこういて、かれらはある政治的セクト集団に所属していたのだが、そのヘルメットに「反帝、反スタ」という文字が書かれていたのだった。「反帝」は「反帝国主義」の略、じゃ、「反スタ」は? そばにいた男子学生に聞いた。すると彼は「反スターリン主義」と答え、わたしは世界史の教科書に出ていたその名前を思い出したのだった。 しかし、「反帝、反スタ」ということばはわたしの青春の表面をすうーっと通りすぎて行ったにすぎない。 猿丸さんはどうだったのだろう。 少なくとも「靴屋さんの息子である」ことは知っていた。そしてそれを俳句にするくらいだから、もうすこしスターリンにわたしよりとどまったのかもしれない。 「花八つ手」の季語がやさしくていい。
by fragie777
| 2014-03-27 19:26
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