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3月25日(火)
なんとなく春を感じません。 今朝自分の机に出勤して驚いた。 そのあまりの汚さにである。 自慢じゃないが、ふらんす堂でいちばん机が汚いのはyamaokaである。 ゲラがうずまき、本が乱雑に重ねられボールペンやらフセンやらがあっちこっちに散乱し、おまけに昨日のおやつの食べかけがある。(これは今日の昼食に食べきったが……) 実は昨日おやつをふた口まで食べて、わたしは出かける予定があったことを思い出し大急ぎでおやつを口から放りだし出かけたのである。 本当にガサツな女である。 整理整頓が上手なひとは頭がいい、と聞くがその観点からいえばわたしは最強の大馬鹿者を誇ってもいい。 今日もわたしの大切な手帖が午後のある時点より紛失していまだに出て来ない。 わたしの周辺ではこういった不思議なことばかり起こるのだ。 今発売の「週刊文春」で、歌人の穂村弘さんによる連載「私の読書日記」に、野口る理句集『しやりり』が書影入りでとりあげられている。短いのでその箇所のみ紹介したい。 『しやりり』(野口る理 ふらんす堂 2000円+税)を読んだ。句集である。まず著者名に目を奪われる。「る」? 本を開くと「装幀・野口ま綾」の文字があった。「ま」? 「る理」と「ま綾」、姉妹か、もしかして双子だろうか。斬新な攻撃だなあ。 河豚洗ふために水また水また水 凄い「水」の量だ。ここまで丁寧に洗うのは、やっぱり「河豚」の毒のせいだろうか。定型の五七五で区切ると「河豚洗ふ/ために水また/水また水」となる。結句の僅か一音の字余りが「水」の流しっぱなし感を強めている。 霧吹きの霧となるべし春の水 やはり「水」の句。「水」にもいろいろな運命がある。その中でも「霧吹きの霧となる」っていうのは、かなりレアなんじゃないか。自分が「水」だったら、「河豚」を洗うよりはそっちのほうがいい。 偽物のやうな本物とは金魚 なるほど。他の金魚に比べても「金魚」には生物としてのリアリティがない。でも、あれが「本物」なのだ。 己身より小さき店に鯨売られ 意表を衝かれる。確かに「鯨」を丸ごと売るわけじゃないもんなあ。「金魚」が「偽物」のような「本物」だとか、「鯨」が自分よりも小さい「店」に売られているとか。考えたこともなかったけど、云われると納得。ごく短い言葉でそれまでの世界像が組み換えられる快感がある。 昨日の朝日新聞には、藤田千鶴著『白へ』が紹介されていた。 白くまの薄汚れているあの感じ貨車のひとつに雪は残りて 短歌と共に童話4作品を収める。ゆったりと不思議な味わい。 また今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、木村有宏句集『無伴奏』より。 暁の流氷の上鷲の数 浮氷という春の季語がある。水面の氷が解けて池や川を漂っているところをいう。この現象がオホーツク海を舞台に壮大に繰り広げられるのが流氷である。その流氷に何羽もの鷲が群がっている。薄明のなか、白い世界をさすらう狩人。 「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、植竹春子句集『蘆の角』の一句だ。 トウと言ふ母の名前や花山椒 風変わりな名付けもめずらしくなくなった昨今だが、さすがに彷徨君や彼方ちゃんはなんと読んでよいものか首を傾げてしまう。それでも親が子を思い苦心惨憺した末に付けた名だということは確かだろう。振り返れば、明治生まれのわたしの祖父の名は弁慶だった。兄ふたりが夭逝したため、強い名を求めた結果だが、この名のためなにかと苦労も多かったようだ。一方、大正生まれの祖母は菊の季節に生まれたのでキク。大正時代あたりまで女性はカタカナで二~三文字の名が多かった。掲句のトウさんも、おそらく十人目の子であったとか、ごくあっさりした理由によるものだろう。男性、ことに長男の名の手厚さに比べるとあまりのそっけなさに当時の男子優勢を見る思いがする。しかし、子どもにとって親の名とは呼ぶことのない名でもある。母という存在に固有の名のあることで、自分から遠ざかってしまうような心細さも覚えるのだ。花山椒が過ぎ去ったあの頃の生活の匂いを引き連れ、胸をしめつける。〈歌うたふやうに風船あがりけり〉〈瞬きをしてたんぽぽをふやしけり〉『蘆の角』(2014)所収。 これは、あたらしく発刊された「クプラス創刊号」(発行人・高山れおな)。すこし前に送ってもらったのだが、なかなか紹介できなかった。デザインが素晴らしいとまず思った。スタッフのPさんが「いいわあ!「ふらんす堂通信」もこういう風にしたい!!」と叫んだのである。レイアウトがカッコいいだけでなく読みやすい。とて評判がよく、冊数が足りなくなってしまったとか。昨日の讀賣新聞の夕刊で仁平勝さんが特集の「いい俳句」について言及していたな。古脇語(ふるわきかたり)さんによる連載「俳句断章1」は、後籐比奈夫句集『夕映日記』がとりあげられている。タイトルは「『夕映日記』ノート」。『夕映日記』を、いくつかのキイワードによって句を読み解いていく。ここでは「とまどい」という言葉のもとに読み解かれた句と文章を紹介する。 わたしはこの書物を読むにつけて、しばしばとまどうことになる。というのは、言葉がしばしば書き挿しのまま放り投げられて、二度と帰ってこないからなのである。 黴の書に子曰く曰く 湧飾りのやうな注連飾のやうな 早梅といふ言葉あり桜には これらの言葉は、帰り着くことの出来ない時と場所のあること、わたしに対していまさらほとんどどうにも作用しない(作用しえない)時と場所を教えてくれる。それらは、言葉がなければ、かなったことにされていただろう時と場所なのだが、言葉があることで、たしかにあったことになる。 しかし、そのとき、その場所になにがあったのかはわからない。わたしにわかるのは、手にちょうどいい重みを感じさせる、丁寧に閉じられた箱の存在だけで、中身については皆目見当がつかない。 もし、中身をとりだすことができたならば、その時と場所はある意味を得て、わたしにはっきりと作用してしますだろう。しかし、そんなことになってしまえば、わたしはその時と場所に対する特別な感情を失うことになる(挙げた句の中でもっとも箱のイメージとつながるのは、「子曰く」の中の一句である。現代日本のわたしたちには、発言をカギ括弧という箱やフキダシという袋に梱包したがる習性が植えつけられている)。 物理学者がシュレーディンガーの猫が入った箱を開くとき、彼はその生/死を確認し、猫の状態についての明らかな情報を得る。しかし、わたしは敬虔な物理学者ではないゆえ、その箱が開けられるときに逃げ出してしまうなにかに思いを馳せずにはいられないのだ。 今日から、人形劇「シャーロックホームズ」が始まる。まえの「新・三銃士」も楽しかったが、今回は特に楽しみにしている。実は7時半からだからもうすぐ始まってしまうのだが、わたしはぬかりなく録画予約をしてきたのである。 お夕飯をたべるときにゆっくりと見る予定。 今日のお夕飯はひさしぶりでキムチ鍋にするつもり。 冷蔵庫に白菜がないから春キャベツを使ってね。
by fragie777
| 2014-03-25 19:22
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