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11月6日(水)
2013年もだんだん日数が少なくなっていく。 やらなくてはならないことだらけで、わたしは発狂しそうである、と言いながらこの11月の休日はあれこれと遊ぶ計画がある。 紹介しそびれていた新聞記事を紹介したい。 まず10月21日付の毎日新聞の岸本尚毅さんによる「俳句月評」である。「『近代』を問う」というタイトルである。全文を紹介したい。 ふらんす堂の書籍は、後籐比奈夫句集『夕映日記』と深見けん二句集『菫濃く』にふれている。 俳句という詩は、俳句とは何かを自問し続ける宿命にある。その問いは近代俳句とは何かという問いにほぼ等しい。 最近、俳句の近代の本質をよく捉えた評論が刊行された。青木亮人『その眼、俳人につき(邑書林)である。青木は近代俳句の写生が「瞬間の風景」を志向し、高浜虚子の句が「読み手のまなざしを誘導する」文体であったことを指摘する。同時に「うつろい」の感覚や日常に即した「月並(つきなみ)」の味わいなど近代俳句が失ったものにも目を向ける。気鋭の学究による近代俳句論の進展に期待したい。 子規以降の俳人たちは、反近代や脱近代も含め、何らかの意味で「近代」の影響下にある。現役の実作者も含め「近(現)代俳人」がどのように自らの俳人格の形成を図ったかは興味深い。「わが句碑に風がこんなに寒いとは」は後籐比奈夫『夕映日記』(ふらんす堂)より。「底紅や娘なけれど孫娘」は深見けん二『菫濃く』(同)より。けん二の句は比奈夫の父夜半の「底紅の咲く隣にもまなむすめ」を踏まえる。比奈夫・けん二とも季題と写生を軸にした高浜虚子の枠組みの中で半世紀をゆうに超える句歴を重ねた九十歳代の現役である。彼らは近代俳句の方法を自家薬籠中のものとしながら、長年の作句経験を通じて一種の自在さを身につけたように見える。意図された方法論と意図せざる作品とのミスマッチもまた近代俳句の果実と呼び得るのだろうか。 青木も「俳人虚子の論と実作の間にも大きな溝が横たわっている」と指摘する。論と作との乖離(かいり)は、すぐれた作家・作品に多く随伴する事象とも思えるが、実作者・研究者の別、近代・近世の別を問わない興味深いテーマではなかろうか。 おなじく21日付の京都新聞では南うみをさんの「詩歌の本棚」の新刊評で、ふらんす堂刊行の本が二冊紹介されている。前田攝子句集『晴好』と大島雄作句集『春風』。ともに「白のシリーズ」の一環として刊行されたものである。 『晴好』(ふらんす堂)は、前田攝子の第二句集で平成十二年から二十五年までの三百八十六句をおさめる。平成五年、「氷室」に入会、金久美智子に師事し、現在「氷室」の編集長を務める。 夜濯ぎや比叡の闇の根に住まひ みづうみは真闇を解かず稲つるび 唐崎の松を流れて春の雪 夏山を仰ぐ近さへ来りけり 樏を脱ぎたる足の火照りかな 清明の山にたましひあづけ来し 比叡山麓の、霊気迫る闇を「夜濯ぎ」に体感し、また琵琶湖の広大な闇は雷光でも「解かず」と、新たな住み処(か)、近江の地霊と交感する。芭蕉の「唐崎の松」を、「春の雪」が流れていく景は、現実かつ作者の美意識である。遥々と来て、「夏山を仰ぐ近さ」に登山の緊張感が、また「樏」を外した「足の火照り」は、体験者のみ知る感覚である。そして「清明」の桜の山を歩いた至福感を、「たましひあずけ来し」と叙す。ここには近江を、自然を愛しむ心性が、簡潔な言葉で表現されている。 繕いの糸目あきらか鉾祭 春霰の湖上法会となりにけり 松上げの昂ぶりのまま踊るなり くれなゐの口ほのと開け国栖の贄 絢爛たる胴掛の「繕ひの糸目」に、歴史と伝統を受け止め、また「比良八講」の湖上の荒れを、「春霰(しゅんさん)」で言い止める。広河原の闇の火祭が「昂ぶりのまま踊る」に活写され、大和は国栖(くす)の里の、翁(おきな)舞の贄(にえ)を凝視する。作者は伝統行事の中に、宗教や文化の根を探る。昭和二十七年生まれ。大津市在住。 『春風』(ふらんす堂)は、大島雄作の第四句集で、平成十六年から二十二年までの三百六十五句をおさめる。昭和五十七年「沖」に入会し、能村登四郎に師事する。平成十九年「沖」を退会し、現在「青垣」を代表する。 春の風邪むかしテレビを叩きけり ファウルフライへ差し出しぬ夏帽子 糸電話持たされてゐる生身魂 日向ぼこ琥珀の中の虫のごと 湖西線ちよつと春風遅れます 我が身より管生えてゐる冬の月 春風邪の浮くような意識の中で、昔の頑丈なテレビを思い出し、ボールを我が物にせんと差し出す「夏帽子」、孫に「糸電話持たされ」たまま、ぽつねんとする「生身魂」、いずれも口元がゆるむ景だ。背を丸め、冬日にとろける姿を「琥珀(こはく)の中の虫」と喩え、車内アナウンスのように、湖西線の遅い春を伝える。そして冬の月明りの下、病院の我が身を客観視する冷静な意識。総じて多様かつ自在な、どこかおかしみのある表現法を支えているのは、厳しい「写生の眼」である。 稲雀ざんぶと稲にもぐりけり ひらひらと水を暑がる金魚かな 野紺菊空がひらいてゆきにけり 薄氷にさつき止んだる雨の痕 稲穂波を襲う雀の群れを、海に「ざんぶ」と比喩し、「ひらひらと」泳ぐ金魚の色に、我が身の暑さを感情移入する。また、野紺菊に応えて、青空が広がるという感受、そして「薄氷」に残る「雨の痕」を見逃さない眼。いずれも対象に同化しつつ、確かなリアリティが読み手に伝わる。昭和二十七年生まれ。豊中市在住。 あともうひとつ紹介したいものがあったのだが、もう疲れた。 キイボードを打っていたわたしの指が休みたいと言っている。 わたしは他人に対しては厳しいのだが、わたしの指先についてはきわめて甘い。 またの機会にしたいと思う。 今朝は家の玄関のところに散らばっていた落葉を拾ってから出社した。 狭いところに雑木がたくさんあるから大変。 スーパーでもらった袋を持って一葉一葉拾っていくの。 まだ箒で掃き寄せるほどには落ちていないのでそれが一番効率がいい。 わたしは落葉があってもかまわないんだけど、家の周りの住人たちがとてもきれい好きだっていうことが最近分かってきた。 (もう10年以上も住んでいるんだけど、気づかなかった……) 長い間、(あそこの家は!)って顰蹙ものだったと思う。 言われたわけではないのだけど、気づいてしまうとね…… でもきっとわたしのことだから、すぐに忘れてしまうっていうこともある。 地球上のいい加減な住民である、わたしは。
by fragie777
| 2013-11-06 19:34
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