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8月29日(木)
夜でかけなくてはならないので、 (遊びじゃないのよ、大人にはね、いろんな用事があるのよ) さっ、 新刊紹介をしたい。 菅家瑞正かんけずいせい)句集『遠望』。 著者の菅家瑞正さんは、俳誌「泉」(綾部仁喜主宰)同人、この度の句集は第二句集となる。昭和54年に「泉」入会、石田勝彦 綾部仁喜に師事 と略歴にあるから、俳句をはじめて34年となる。この度の句集は平成三年から二四年までのやく20年間の作品を収録したものである。 タイトルは「遠望(えんぼう)」。この言葉が入った作品は、 遠望の眉の露けくなりにけり 遠望をもてこの秋を惜しみけり の二句がある。が、なによりも著者の菅家瑞正さんがこの句集名に込めた思いは遥かにして深いものがある。 句集名の「遠望」は我家の六階の南窓から相模の丹沢山系や大山を眺望することを常住座臥の習いとしており、また同時に故山奥会津の風物に対する懐旧でもある。水の合った「泉」という結社に入会後、三十四年の時間的な道程を顧みることもまた然りである。 ご自身の家から見える山々への思い、故郷の山々が喚起するものへの思い、そして俳句とともにあった34年間への思い、その時空をがもたらすものを胸にみたして菅家さんはこの一冊を編んだのである。その胸に去来するものは数多かもしれないが、句集に収録された作品はまことに簡潔にしてシンプルな景として立ち上がってくる。それがこの句集の魅力だ。 春雪の積るところに積りけり 跨ぐことさらに跳ぶこと春の水 滝水にかかはらぬ石ありにけり 耳鼻をつけて吹雪を戻りけり 梅干の種の飛んだる春の山 中空へするすると葛咲きにけり 踏まれをるそんぢよそこらの草の露 白桃にくちびるといふ柔きもの 冬眠のけものの山を踏みにけり 菖蒲湯や菖蒲の茎はもも色に わだかまりなき新涼の戸口かな 朧夜の白身魚をほぐしけり 春の蚊を捕へたる手を開きけり 山繭を吊つてをりたる虚空かな 全幅も全長も滝凍りけり 稲雀追はれて数を見せにけり 一水に執して秋の燕かな 梅林をくぐりて空に出でにけり 座蒲団の上にも椿落ちにけり みづうみに水の張りつく大暑かな その色の雁来紅の矜恃かな 気持ちのよいまでに多くを語らずの俳句である。そういう俳句を選んでいったら、あらまっ、ほとんどが「かな」「けり」の俳句となってしまった。もっともこの句集には「かな」「けり」の作品が圧倒的に多い。それは作者のなかにある信頼によるものだ。定型への信頼と切れ字への信頼だ。その結果、作品が語るものは季語のもたらす風景だ。季の景のみを詠んでいると言っても言い過ぎではないだろう。 この句集に「泉」副主宰の藤本美和子さんが、帯文を寄せている。 故山会津への篤き思いが詩心のひらめきとなり、詩情の源泉となる。また望郷の念は季語との出会いを果たして挨拶の心となる。本書は、産土への思いを深くしつつ、韻文表現に徹した存問の一書である。 「韻文表現に徹した存問の一書」とは、まさにその通りだと思う。もの欲しげなものがいっさいなく清々しいまでの季節の景が展開する。もちろん「かな」「けり」の文体でないものでも心魅かれる作品が沢山あった。 掛軸に水の流るる日短か 秋蟬の限りを尽せ楢林 寒芹の水したたらす水の上 ことごとく田に水満ちて時鳥 水の上に雨落ちてくる松の芯 かなかなや豆腐一丁水の中 手ざはりの欅の幹や十三夜 洗ひたてなる大空や麦の秋 青大将モーゼは杖を投じたる と並べてみたら名詞で終る句が圧倒的に多かった。ここでもやはり詠まれているのは季節の景だ。菅家瑞正さんは、20年間の膨大なる作品からこの度の句集を編まれたわけであるが、捨てられた作品もまた膨大だったのではないだろうか、しかし、その俳句の文体においても彼はあくまで禁欲的だった。つまり、「俳句はけり、かな、や、などの切れ字で足る」という師の教えを胸にきざんで俳句を作り続けて来られたのだ。 片膝を立て直す草芳しく 眼に慣れてくる葉隠れの実梅かな こんなさりげない作品に上手さを感じさせる俳人であるが、あまりにもさりげないので読み過ごしてしまいそうだ。 そんな季の風景にストイックに徹した作品、と思ったらいやいや、充分なる愛妻家でもあった。「妻」という語がはんぱなく多いのだ。日常の妻をこんな風に自然に詠みそれをあまりにもさりげなく句集の収録してしまう菅家さんは、なかなかのお人だ。やるなあ……ってわたしは思った。 花びらのまた載つてゐる妻の髪 若草に坐つてごらん妻よ子よ 行春や山の一枝を妻の手に 妻と佇ち茅花流しを言ひにけり 芋虫に妻は割箸持て来たり 夜の音を妻の言ひたる時雨かな 行春や妻に買ひたき花鋏 妻に言ふ春を惜しみに行かぬかと 遠山へつぶやく妻や春隣 妻とゐて寒と名の付くものの中 柊を挿してよといふ妻の声 どうです。やるでしょう、菅家さん。 ここには暮らしのなかの妻がなんと活き活きと描かれていることか。 しかも最後の「柊」の句は、この句集のいちばん終りの作品なのだ。 句集を読み終わったときに、この「柊を挿してよ」という妻の声がわたしたちの耳に余韻として残る寸法である。実は何も語っていないのだが、確実にわたしたちには「柊挿す」という季語が活き活きとした現実となって迫ってくるのだ。 これはなかなか出来ることではない。 やはり俳句という定型を信頼し十全に活用してならではのこととわたしは思う。 師のひとりは亡き石田勝彦。師系をたどれば石田波郷につらなる。 勝彦の腰掛石や鮎の川 勝彦忌逼る泰山木の花 山といふ山隠れなし波郷の忌 わたしはふたたびもう一人の師、綾部仁喜氏のこの句集によせたことばを引用したい。 「具体的でいい。派手なくしっかりしていていかにも泉の句らしい」 この句集の装丁は君嶋真理子さん。 派手ではないが、静謐でいい装丁だ。 この句集でわたしが面白いと思ったのは次の句。 やっぱりシンプルな句なのだけど。 水餅に然るべき手を入れにけり この「然るべき手」っていうのが、いったいどんな手よ、って思ったのだが、なんとなく納得させられてしまいそうになる。 でもやっぱり「然るべき手」って具体的に言ったらどんな手、わたしの手はきっと「然るべき手」ではないと思うけど、いったいどんな手なんだろうなあ。 上手い句だ。と思う。 「水餅」が確かなものとして迫ってくるのだ。 でも、やっぱ、どんな手よ? これから大人のyamaokaは出かけます。 子どもはもう寝なさいよ。
by fragie777
| 2013-08-29 20:45
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