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8月26日(月)
また間違えちゃった。 昨日のブログでお気に入りのオーストリアのティーカップのブランド名はアウガルテンだということをこのブログを読んでくださっているSさんから教えていただいた。 わたしったら、買ったときからずっとアウグスツンって思いこんでいた。 (いいかげんなもんでしょ。) ちなみにわたしのカップはマリアテレジアと名付けられているということ。 「マリアテレジア」ね……。 なんかいいじゃん! 新刊紹介をしなくてはいけないのであるが、今日は新聞の掲載記事を紹介したい。 まず、毎日新聞の文芸ジャーナリスト酒井佐忠さんによる「詩歌の森へ」は、「文体に徹する虚子論」と題して、岸本尚毅著『高濱虚子の百句』がとり上げられている。 高濱虚子については、限りなく多くのことが語られている。それだけ虚子は偉大な俳人であり、ある意味で大きなナゾを抱えた人物でもあった。最近刊行された『高濱虚子の百句』(ふらんす堂)は、一句一句の文体の解析を重視したうえで、虚子のおける季題と写生、あるいは季題以外の言葉との関係を見つめ、新たな虚子像を提出する優れた一巻だ。とり上げられた100句は、〈遠山に日の当りたる枯野かな〉〈風生と死の話して涼しさよ〉などの有名な句もあるが、どちらかといえば一見、無造作に投げ出されたように作られた無意味と思われるような句も多い。その点について岸本は、「不確定・無意味・無目的・無関係・偶然・脈絡な無い」など一般的に人が嫌う状態こそが「我々の対面している現実の世界のありのままの姿だ」とおそらく虚子は考えていたのだと指摘する。虚子の俳句の根底には、一種虚無的な世界観があり、たが、句にはしばしば静かな情熱があるともいう。その「虚無的な世界観と静かな情熱」の関係について著者は、「いったんは人間原理を否定した上で、もう一度、人間原理に回帰しているように思えます」と書いている。これは虚子の句と人間像についての深い洞察だと思う。〈世の中を遊びご々ろや氷柱折る〉。モーツァルトが「乱痴気さわぎのようなオペラと崇高極まりないレクイエムをほぼ同時に手がけた」ように虚子にも冷徹な句と遊び心の句があり、「虚子は長生きをしたモーツァルトのよう」ともいう。巻末の季題論は実作者の目が光る。 同じく毎日新聞の新刊紹介では、3冊ふらんす堂の句集がとりあげられている。 まず、後籐比奈夫句集『夕映日記』。 飛花になく落花に遊び心あり 93歳から3年間の作品をまとめた第13句集。独自の視線によってとらえた世界に読者を引き込む。俳句とは理性による認識であることを思わせるところに、著者の俳句の面白さがある。 2冊目は、染谷秀雄句集『灌流』。 月今宵赤子上手に坐りたる 第2句集。著者は現在「屋根」同人。「夏草」において山口青邨に師事し、ひたすら吟行・写生の道を歩み続けてきた。日常を詠んだ作品にもほのぼのとした味わいがある。 3冊目は、坂本茉莉句集『滑走路』。 夜濯や極彩色の国に住み 第1句集。著者は4半世紀余りタイに住んでおり、通訳・翻訳に従事。海外在住者としての意識が、俳句という形式に広がりと実りをもたらしている。 讀賣新聞の「俳句時評」では、仁平勝さんが、後籐比奈夫句集『夕映日記』を紹介している。タイトルは「きわめて希少な抒情」。 後籐比奈夫句集『夕映日記』を読んで、ウーンとうなってしまった。九十六歳の第十三句集だが、もはや好悪を超えたところで、俳句の究極のかたちを見る思いがする。〈櫛その他これは十九の春のもの〉〈暑きこと言はず涼しきことを言ふ〉〈わが句碑に風がこんなに寒いとは〉〈石滑るから枯芝を踏み行けと〉〈ボロ市で褒められしわが車椅子〉等々。解釈は不要だろう。悠々自適というか天衣無縫というか、五七五の定型を普段着として自在に着こなしている。こうなると何でも俳句になる感じだが、けっして只事(ただごと)ではない。老いの心境がユーモラスに、あるいはシニカルに伝わってくる。思わず笑ったのは〈戯画ながら兎に弓を引かすとは〉。あの「鳥獣戯画」が題材だが、鳥羽僧正もこんなクレームがつくとは思わなかっただろう。戦争が絶えない時代への揶揄でもある。〈父の日に父に甘えに来たらしき〉と言われると、お祝に行った子供たちも立つ瀬がないが、べつに嫌味ではなく、作者の嬉しそうな顔が見えてくる。〈飛花になく落花に遊び心あり〉などと詠みながら、まさに「落花」の遊び心を堪能している一巻だ。 とほかに澤好摩句集『光源』(書肆麒麟)にふれ、〈駅の燈にまぶしき雪の外も雪〉〈船窓に音なくひらき遠花火〉〈夜祭の雑踏若き父来るや〉〈うたたねの畳の縁を来る夜汽車〉などをとりあげ、六十九歳の円熟の第四句集。ここではとりわけ、風景の切り取り方に円熟の芸が見られる。 おなじく讀賣新聞の「短歌時評」では、川野里子さんが、小島ゆかり歌集『純白光』をとりあげている。タイトルは「身体通じた生の確認」。 八十年代から九十年代にかけて、女性の性の問題とともに身体表現の可能性がしきりに語られた。その後、身体に関わる話題は表面から消えたように見える。小島ゆかり歌集『純白光』のなかで「肉体の記憶は、心の記憶よりもずっと生々しい」と詞書を記す。〈子どもらの耳くりくりと洗ひしを手は覚えをりあさりを洗ふ〉と詠み、身体に刻印された記憶として子育てを回想する。身体は時に心より深く、正確に経験を刻んでいる。〈健康のため大股歩きせん一寸ごとの闇をまたいで〉〈葉桜となりてくつろぐ木を愛すもうどこだつて触てもよし〉身体が記憶した確かな生の手応え。明るく透明な文体は、いっそうシンプルに磨かれ、生のエッセンスに迫る。一日一首が詠まれ、一年分が纏められたこの歌集には、苦い現実を充分に知りつつ掴まれる小さな喜びが煌めいている。 明日は新刊句集を紹介します。 では。 これからわたしはさきほどコンビニエンスストアで買った「1日分のビタミンC ザクロ&ストロベリー」というタイトルの飲み物を飲む予定。 うまいかどうかはわかんないわよ。 コンビニの棚でわたしを呼んでいたので、思わずつかんでレジに持って行ったのだ。 さ、 マリアテレジアのごとく、 飲もう。
by fragie777
| 2013-08-26 18:54
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