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7月22日(月)
なんとう名の花だろう……。 この横ではカワセミを見ようと大勢の見物客が望遠鏡をたてたりカメラを設置したり賑やかだった。 「田中裕明授賞式」という大きな山場をひとつ越えたということもあるのか、今日は眠くて眠くてまいった。 まだまだ暑い日々はつづく。 気をひきしめていこう。 いろいろと新刊書が出来上がって来ているのだが、紹介が間に合わない。 今日は、後藤比奈夫句集『夕映日記』(ゆうばえにっき)を紹介したい。 今年96歳の後籐比奈夫先生の第十二句集である。 この写真では分かりにくいが、小さな文庫本サイズである。 「夕映日記(ゆうばえにっき)」という命名がまずいい。 今年は九十六歳、日記のように作っている俳句もまた少々溜った。作った俳句を整理して置くだけながら「夕映日記」と銘打って纏めることとした。 こんな美しい句集名の似合うお方はほかにいるだろうか。 洗練と優美さがゆったりと備わっているお方なのだ。 フアーザーズデイ純白の薔薇一花 帯にも用いた一句であるが、これだけ読んだかぎりでは、いったい96歳の翁が詠んだものと思うだろうか。 「父の日」を「フアーザーズデイ」なんて誰がこんな風にお洒落に詠むかしら。しかも「純白の薔薇」である。あまりに若若しく颯爽とした心がここにはある。 神戸にお住まいというのもよくお似合いだ。 お電話をいただくとき、 「神戸の後籐です」「あるいは神戸の後籐比奈夫です」とおっしゃられるのだが、氏の神戸への誇りと愛情が伝わってくる。横浜でもなく神戸なのだ。神戸と言う土地がもつ洗練とハイカラと明るい風光と上方の余裕が後籐比奈夫先生を形づくっている。 今回の句集は、いままで以上に一句一句が、息をはくように自然に詠まれている。すでに俳句はその身体を制覇し、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」のごとくである。しかもどれも優しい表情をしているので押しつけがましくなく、さらりとしてどこかに人生を面白がっているような余裕とユーモアがある。歳をかさねるごとにその年齢の垢を削ぎ落して身軽になられていくかのごとくである。 風船はもつとゆつくり突いたらどう 落花飛花落花飛花はた飛花落花 この花のために一会の花衣 パソコンに御慶を言うてゐる子かな 梅酒には過分ともベネチユアングラス 表面張力表面張力水馬 人涼し河馬に似てゐるなどと言はれ 編みかけの毛糸のこぼしゐる心 ボロ市で褒められしわが車椅子 脚二本描いてあるだけにて涼し 人やさしゆすらの花のやさしければ 壬生寺に春の埃の立つ日かな 母子草摘めば田平子ついて来し 雑巾をかけたき猿の腰かけも 余生とはゆめ思はじな老の春 昨日の毎日新聞「詩歌の森へ」で、酒井佐忠氏が「『夕映え日記』の幸せ」と題して、この句集を鑑賞しておられる。一部を引用する。 「俳句は極楽の文芸」といったのは高浜虚子だったが、確かにある意味で幸な詩型といえる。今年96歳を迎えた大俳人、後籐比奈夫の新句集『夕映日記』(ふらんす堂)をひもといてそう思う。「日記のように作っている俳句」がたまったのでまとめたというのだが、悠然とした日々の中で、「夕映え」のように光リ輝く時間がぶんこ判の小さな句集につまっている。(略)とりわけ〈フアーザーズデイ純白の薔薇一花〉の一句に目を奪われる。「父の日」は夏の季語、だが、これまで英語で記された句はほとんどない。「父の日」にまつわる湿潤な抒情は一切なく、白いバラ一輪の輝きに、モダニズムのメッカ神戸を象徴するようなきらめきを感じる。老いの姿はどこにもない。父の俳人・後籐夜半への思いも隠されているのか。 「ファーザーズデイ」には誰も驚く。 「願わくば百歳で最後の句集が出せればと念じている。」とあとがきにあるが、ますます軽やかなしなやかなお心でわたしたちをあっと言わせる俳句を作り続けていただきたいとわたしは願っている。 この度の装丁は和兎さん。 この句集はシリーズ「ふらんす堂叢書 俳句シリーズ1」の一環として刊行された。 わたしはこういう本がとても好きである。 実は本文の用紙をあたらしい紙でトライしてみた。 いままでより少し白目のものを使ってみた。 結果はとても軽くてやわらかで印刷の仕上がりがちょっと活版のように思える。 こういうことは私たち本を作る側にしかなかなか分からないことなのだが、わたしはこの本文紙に出会ったことがかなり嬉しい。 それはまさに後籐比奈夫先生の佇まいのようである。 暑きこと言はず涼しきことを言ふ そう、この心意気なのよね。
by fragie777
| 2013-07-22 20:00
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