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7月17日(水)
ここの「四天王」は有名だが、実はこの建物のなかにきわめてひそっりといる。 なかでも広目天はとくに存在感がある。 俳人の平石和美さんは、学生時代にこの広目天に会いに自転車をとばしてたびたび立ち寄ったという。心の恋人だったとか。 (わたしから言わせると存在感はあるが渋いおっさんという感じなのであるが……) 「その渋さがいいんです」ときっぱり平石さんは言い切った。 未成熟な男子より、渋くて少々威圧感のある大人男子がいいのだという。それを聞いてわたしは、(平石さん、やるなあ……)とぐっと彼女の方が大人の女に見えたのだった。 平石和美さんはふらんす堂から『畳ひかりて』というすぐれた「飯島晴子研究」の一書を刊行されているが、飯島晴子という俳人に魅かれる所以も分かるような気がする。 (わたしはわたしの中に三つ網みの少女を育てているので、どうもいまひとつ男の渋さということが理解できないのだ。まっ、どうでもいいことだけど。) ええっと。 新刊紹介をします。 堀瞳子句集『山毛欅』。第一句集である。 著者の堀瞳子(ほり・とうこ)さんは、俳誌「運河」(茨木和生主宰)の同人である。 茨木和生氏の序文によると本格的な登山家であるということだ。 堀瞳子さんは本格的な登山家である。本格的な、と私がこの詞を使っているのは、日本百名山をすでに踏破しているからである。それにしては登山の句が少ないではないかと思う人がいるかもしれないが、瞳子さんは本格的な登山家だから、仲間とともに登山することに集中しており、作句をする暇などある筈がないのである。 わたしはまずそういう予備知識なしにこの句集を読んだのだが、実はそうだったのかとすこし驚いた。というのは、いわゆる山岳俳句なるものの俳句はない。そう言われて読めばそうか、山登りの状況で詠んだ句なのか……と思うものもある。しかし、登山家ゆえの視線でとらえた俳句であるとしても、その作品がひとたび活字になったとき、登山家の視点を離れもっと自由によむことができるのが、この句集の魅力であると思う。 安達太良の八十八夜の桜かな すれ違ふ男に聞くは蛇のこと 火の山の鎮まつてゐる登山かな 星を見に行くといふ子に綿入を 翼あるごとく滑降夏スキー 落し角拾へりお花摘みに行き 胎盤の付きたる猪の子を拾ふ 風葬の大君に咲く桜かな 空耳と思ふ間もなくほととぎす 甲斐駒は雲に聳えて稲の花 杉山の中は吹雪かず涅槃雪 牛梁の昼を灯せる寒さかな 雪兎かすかに鳴いてくれにけり どこかに自然の荒々しさを潜めており、自然と通底していると感じさせるものがある。それはきっと意識的に表現されたものではなく、堀瞳子さんの身体が記憶してしまったものなのだろう。 鳥帰るアルプス越えに死ぬもゐて 鳥の帰る頃といえば、三月の末頃であろうか。日本アルプスでは、新雪があれば雪崩の危険度の高い時期である。こんな時期に登山をしての体験の句である。山小屋で吹雪の一夜を過ごして外に出て見ると、雪の上に小鳥の死骸が散らばっている。山越えの途中、吹雪に叩かれて落ちてしまった小鳥たちである。おそらくその一羽を掬い上げて手の平に入れて眺めても見ただろう。この一句を得た体験は今後の瞳子さんの大きな財産となるに違いない。 茨木主宰の序文から引用した。 八朔の眠れる味噌を起こしけり 真ん中の膨らんでゐる花野かな 階段の上に真夏の空ありぬ 青空をいち日得たる巣箱かな まなざしは山を離さず秋の航 観音の千手はつばさ冬の虹 山桜雲は離れて行きにけり 千年の樟に日傘を畳みけり 天日の色となるまで大根干す やはり作品を読むと、著者が対峙しているものは、人間ではなく自然だ、ということが見えてくる。大きな何かと向き合っているように思える。山登りで培われて来た精神なのだろうか。きっとそうだ。 山と言う大きな自然に魅せられて四十年を越えましたが、俳句もそれに近づくよう心をゆだねて参りたいと思います。「山毛欅」は山行で出合った数々の巨木の山毛欅を思い、句集名といたしました。 「あとがき」の言葉である。 「山毛欅」という句集名も、登山家の堀瞳子さんにふさわしいものだ。意志と骨格を感じさせる命名だ。 装丁は君嶋真理子さん。 わたしは、この句に魅かれた。 いつも山をあおぎ大空に顔を向けている雄々しい堀瞳子さんの、もうひとつのやわらかな可愛らしい心にふれたように思ったのだった。 さくらんぼ買ふ幸せを買ふやうに いいな……。 三つ網みの少女を心に飼っている女にはグッとくる一句である。
by fragie777
| 2013-07-17 20:02
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