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7月1日(月)
いよいよ7月である。 朝起きると、わたしは〇十年前にひとりの命をこの世に生み出したことを思い出していた。 あれからわたしはいったい進化したのだろうか……。 なあんにも変わっちゃいない自分を見出したのみだった。 さてと、 今日の朝日新聞の朝刊の「風信」に、『八田木枯全句集』が紹介されている。 洗ひ髪身におぼえなき光ばかり 昨年87歳で死去、既刊6句集と身収録句の約2千句。軽妙洒脱な粋をまとった句風。 そして昨日の毎日新聞には、細見綾子句集『手織』(石田郷子編)が歌人の小島ゆかりさんによって紹介されている。 物故作家を中心に、その全作品を精選するふらんす堂の句集シリーズ。本書には、俳人・細見綾子の全十句集より、代表作四百二十六句が収録される。蛇笏賞をはじめ数々の受賞歴のある人気俳人。作風は瑞々しくおおらかで、親しみがある。 冬になり冬になりきつてしまはずに ふだん着でふたんの心桃の花 ストーブにてかゞやくことが何処かある 日々の暮らしにおける、。飾り気のない豊かなこころの有りようが、そのまままっすぐに詠まれている。しかしながら、その軽やかな詠みぶりとは反対に、彼女の人生は苦難多いものであった。幼くして父親を亡くし、結婚後すぐに夫と母を亡くし、自らも肋膜炎による闘病生活を送った時期もあった。 雪解川烏賊を喰ふ時目にあふれ 仏見て失はぬ間に桃喰めり 再びは生れ来ぬ世か冬銀河 女性として体感した、生きる苦悩や、命の営みの刹那が静かに満ちている。「ふだん着でふだんの心」の俳人・細見綾子の、自然体の世界を支えるものの厚みを、あらためて思う。 今日の「増殖する歳時記」は、矢島渚男句集『百済野』より。 木苺やある晴れた日の記憶満ち もう木苺の盛りは過ぎただろうか。気がつけば、木苺を見なくなってから久しい。子どもの頃には山道のあちこちに自生していたから、学校からの帰り道、空の弁当箱にぎっしりと詰めて帰って、おやつ代わりにしたものだった。もっとも、弁当箱の中でつぶれて汗をかいたような木苺は、そんなに美味ではなかったけれど。そんな体験のない若い人には、この句の良さはわかるまい。字面上の意味は誰にでもわかるけれど、木苺という季節の産物とおのれの記憶とが、このようにしっかりと結びつくという心的構造は理解できないはずだ。木苺に限らず、季節の産物に記憶がしみ込むというようなことは、よほど自然が身辺に豊かでなければ起こり得ないからである。図鑑や歳時記なんぞで木苺を検索するような時代になってしまっては、とうてい無理な相談である。そう考えれば、俳句の季語が持つ機能の一つである季節の共有感覚も、いまや失われたと言ってもよいかもしれない。作者や私の木苺と若い読者の木苺とで共有できるのは、その色彩や形状くらいのものだからだ。つまり決して大げさではなく、現代の木苺は鑑賞するものではあっても、生活とともにあるわけではないから、さながら季節の記号のような存在と化してしまっている。それが良いとか悪いとかと言う前に、このようでしかあり得なくなった現代の私たちの環境には、ただ呆然としてしまうばかりだ。『百済野』(2007)所収。 確かに木苺はわたしたちからどんどん遠ざかっていく。 しかし、わたしは毎年のように「木苺」にさわりそれを食べている。 わたしが遊びにいく武蔵野郊外には、まだまだ沢山の木苺や桑の実があり、友人たちと一緒に鳥と競争するかのようにそれを食べる。 清水さん! 今度ぜひにご一緒しましょう! 鳥の声を聞き木の肌にさわり、蛇に出くわしたり、かるがもの子育てにぶつかったりそれはそれは楽しいですよ。 ブログを書き終えたので帰ろうとおもっていたら、わたしが世に生み出した人間が「焼肉をおごれ」という。 だからおごることにした。 塩タンと骨付きカルビは絶対に食べるんだ。 じゃ。
by fragie777
| 2013-07-01 19:22
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