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11月2日(金)
こうやって家から富士山を眺めるのは久しぶりだ。 今日は金曜日、もう週末である。 はやい。 いったいわたしはこの一週間どんな仕事をしたのだろうか、と顧みるとはなはだ心もとなく手から砂が零れるように実体がない気がする。 しかし、毎日の仕事時間はあっという間に過ぎていってしまい、残された仕事がいつもわたしをあざ笑っているように思える。 こんな風に毎日は過ぎてゆくのだが、目の前に出来上がって来た本を目にすると仕事時間の集積としての形ある結果を手にすることができるわけで日々の錯綜した仕事時間が無駄でなかったと知る。 いや、 待てよ。 今日出来上がってきた句集は愛さんが出がけたものだ。 そして、これから紹介するものはPさん。 どちらもDTP作業は緑さん。 わたしがやったものじゃないじゃん。 いったいわたしは毎日なんでこんなに忙しいんだろう……。 ともかくも新刊紹介をします。 炎環新鋭叢書シリーズ6『風』(かぜ)。 若々しい句集が出来上がった。俳誌「炎環」(石寒太主宰)に所属する若い女性俳人による合同句集である。参加者は、新井いづみ、飯沼邦子、上山根まどか、山岸由佳、山崎ゆき子の五人。それぞれ80句を収録しひとりひとりに「炎環」の先輩俳人による鑑賞がつく。序文は石寒太主宰。「五人の光芒」という題名だ。 地下室へ続く階段ぼたん雪 新井いづみ こんなふうに、平凡な景が彼女の手にかかると一気に俳句作品として屹立してくる。不思議な作家、感性の持主である。 と序文にあるのは、新井いづみさん。五人のなかで一番わかい。作品のタイトルは「青にはじまる」。鑑賞者は齋藤朝比古さん。 朧夜の空気満ちたる体かな 紫陽花の青にはじまる夜空かな 夜涼みや問ひかけ独り言のやう 足早に行く人の咳ひとつかな 風邪の子の扉をすこし開け眠る 彼女の作品は気持ち良いほどに作者が作者のまま眼前に立ち現れる。有り体に言ってしまえば、等身大の自分を素直に詠えるということである。等身大に詠うこととは、自分自身をありのままに露呈することと同義であり、作者の佇まいにほどよき含羞がなければ、その生々しい世界感に読者は鼻白むことになる。しかし、掲出句にそんな瑕疵は微塵も感じられない。このあたりのバランス感覚のよろしさは、新井いづみの稀有な特性であり、俳句を詠む上で最も重要な資質のひとつかと思う (齋藤朝比古「等身大という含羞」より) 羅や化粧ポーチのインシュリン 飯沼邦子 楽しいゆとりと、ちょっぴり淋し気な面影を見せる句群である。(略)彼女には思いきって翔(と)んで欲しい、そう思っている。それはご両親の願いでもあるし、何よりも私の願いでもあるのだから……。 序文より。この合同句集では一番の年長者の飯沼邦子さん。作品のタイトルは「雨宿り」。鑑賞は丑山霞外さん。 黒南風や行間広き哲学書 侘助の隔てし立体駐車場 満月のこぼるる部屋へ戻りけり 十月や人待つやうに雨宿り 小春日や老舗に「正社員募集」 邦子さんはさっぱりとした人にちがいない。「ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子」という句があるが、邦子さんには、うまく見せようとするところがない。むしろ愛想がないといえるほどだ。しかし、よく読めばこころがにじんでくる。印象が鮮明になる。(略)ことばや思いをゆっくり待つ邦子さんの、これからの俳句が楽しみでならない。 (丑山霞外「ふだんの心」より) 三日目の風船やはらかくつねる 上山根まどか なぜ三日目なのか。しかもつねらねばならないのか。そのあたりが曖昧でよく分からない。でも、やわらかくつねるのであるから憎いわけではない。分らないがそこが彼女の魅力につながる。そして読者の心の尾を引いていくのである。 序文に「分からないがそこが魅力」と書かれたのは上山根まどかさん。作品のタイトルは「怖がる」。鑑賞者は田島健一さん。 折り返す電車のいすの西瓜かな 葉牡丹の渦放蕩の祖母おはす 仮縫ひの針に触れゐし冷たさよ 逆光のわたしと葱が背伸びする 福々と芒の枯れてゆきにけり 彼女の句には「何か変」なものが常に漂っていて、日常だけを信じていると見逃してしまいそうなのですが、よく眼を凝らして見てみると確かにそこにぼんやりとした「何か」が浮かび上がってくるのです。(略)おそらく彼女は日頃から、人間のまわりに漂うわずかな気配を見つめて暮らしているのではないでしょうか。 (田島健一「まどかさんの景色」より) 寒夕焼白きものからはじまれり 山岸由佳 ごく当たり前でありながら、なるほどと納得してしまう。まっ白い世界が、やがて薄紅の世界に包まれる夕焼であるといわれてしまえば、まさにそのとおりといわざるを得ない。彼女自身の感性で新しく染めあげて俳句にしていくのだ。 と序文にあるのは、山岸由佳さん。「い爽やかさが、彼女の力のひとつ」とも序文に書かれている。作品のタイトルは「海眠る」。鑑賞者は中嶋憲武さん。 ひたひたと夜のしやうめん冬の滝 水仙のゆれてはなれぬ香りかな よく笑ふ人へ鬼灯鳴らしをり 葉鶏頭しづかに雨の降り出だす 鶯の声に日の差すところかな 山岸はおそらく俳句の真実というダイヤモンドを手にしている。それは今のところ磨かれていない鉱石で、ときおり取り出しては眺め、然るのちに暗闇へ戻したりしているのだろう。磨かれずに暗闇にしまって置かれるか磨かれて輝きを得ることができるか。とどのつまり自得しかないのだ。山岸の選ぶ言葉の手触りのよさ、雰囲気の柔らかさは天性のものであるだろう。(略)まだ磨かれぬダイヤモンドの原石を手に、山岸はひとりの宙にいる。万華鏡の目を失わず、光にも影にもならず、どこへ翔とうとしているのか。ひとりの俳句作家の黎明がはじまった。 (中嶋憲武「万華鏡の目の女」より) 上弦の月やココロノヨリドコロ 山崎ゆき子 上弦に張られた繊い月を見上げながら、自分のココロのヨリドコロを求めているのだ。あきらめのようでありながら、彼女はそれを天命と悟る。これが彼女の明日へ前進する道なのだ。 と序文にあるのが山崎ゆき子さん。「彼女のユニークさは半ぱではない。」ともある。タイトルは「あるがまま」。鑑賞者は、石井浩美さん。 知らされぬ余命ほどほど花柊 春夕焼思ヒ思ハレ振リ振ラレ 深爪となりし零時や雪もよひ 止むときの絶ゆるときかな花げんげ 生き死にの薄き隔たり小春凪 生はまた連続性と言い換えることもできる。然れば止むときは絶えるときである。それでもげんげはただ眼前に広がる。人の死のあっけなさに立ちつくしてしまうような感覚を覚えることがある。(略)厳しい環境にあってふと夜空を見上げたとき、季語はココロノヨリドコロとなって作者も読者も救われる。 (石井浩美「夜空への希求」より) この句集の装丁は和兎さん。シリーズなので一貫したレイアウトでもあるのだが、色は自由だ。 皆さんわかい女性俳人らしいピンク色を選ばれた。 ここではあえて紹介しなかったが、やはり若い女性たちの作品ということもあって、恋愛を詠んだと思われる句がそれぞれある。鑑賞者の方たちはそれにも触れておられる方が多かった。 何故にわたしはそれを紹介しないのかって? 別にやっかんでるからじゃないのよ。 読者の方々にそれを見つける喜びを残しておきたくって……。 ということにしておこう。 このブログを書いている時にスタッフの緑さんから、 「yamaokaさん、ブログで横浜句会の会場のある駅の間違いを書いておいてください。」 「ああ、そうだったわ。スタッフのさつきさんが対応していたことをちゃんとしなくっちゃね」とわたし。緑さんはこういう時、ホントちゃんとしている。頼りになる。 というわけでお詫びです。 「ふらんす堂通信134号」の「横浜句会」の11月4日(日)(明後日)の表記に間違いがあります。 会場は「神奈川県民活動サポートセンター」ですが、最寄駅は「横浜駅」です。 JR・石川町駅 → JR・横浜駅 です。ごめんなさい。 お間違えのないようにお願い致します。 わたしの今夜の夕飯は、昨夜の水炊きのお鍋が残っているのでそれに「サムゲタンの素」を入れてサムゲタンのお鍋にしてしまうこと。 すごく身体があったまる。 最後は十六雑穀米のご飯を入れてお雑炊にして全部を食べちまおうと思っている。 今日の夕飯は人間はわたし一人なのよ。 あとにゃんこが2匹。 食べ終わったらにゃんことわたしと三つ巴であったまってテレビを見るんだ。にゃんこたちはあったかい。 ブログを読んでくださっている皆さまもくれぐれもあったかくしてお過ごしくださいますように。 それでは皆さま、よき週末を。
by fragie777
| 2012-11-02 19:19
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