カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
10月15日(月)
白木蓮の花は毎年見るが実ははじめて見た。 「ふらんす堂通信」の今回のコラムは何度もここで書いているが、「一人〇〇」。普通それって一人じゃあんまりしないよね、というものをそれぞれが紹介するというものだ。今日そのゲラがあがってきた。(おうおう、みんな逞しいひとり〇〇をやっている。人生を謳歌してるなあ……)今回はいつもイラストを描いている君嶋真理子さんも加わっている。 「君嶋さん、これってまったくおじさんだよ」って愛さんがゲラをみて笑いながら叫ぶ。まったく君嶋さんらしいったらない。するとPさんが、 「このコラムだけを読んでいるといままでの記事もふくめて、yamaokaさんのコラムが一番乙女ですよ。yamaokaさんを知らない人が読んだらいったいどんな美少女が書いているんだろうって、夢をあたえてしまいますよ。お顔は公表しにくくなってしまいましたねえ」って、いやなことを言ってくれる。 「確かにyamaokaさんは、ひとり乙女担当かもしれない」と別のスタッフも言う。 「言葉のチョイスからして乙女なんですよ。」と言いながらわたしの文章に突っ込みをいれたりする。 (フン、いいわよ、わたしの顔を知らない人がほとんどなんだから、別に公表するつもりもないしさ……、乙女で悪かったわね。女の皮をかぶったおじさんばかりのふらんす堂に一人くらい乙女がいなくっちゃね)とわたしは思っているのだけれど、このコラムを読まれた皆さんはどう思うかなあ……。 おじさんたちと一人の乙女の織り成すコラムをお楽しみに……。 新刊紹介をしたい。 武田佐自子句集『匙』(さじ)。 第一句集である。俳誌「南風」所属、句歴は長く山口草堂、鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事し40年になる。その40年を機に句集刊行を決意されたと「あとがき」にある。山上樹実雄主宰が序文を寄せている。 花冷や手話の間あひを見つめ合ひ 手話は聴覚および発語の障害者が自分の意を伝えるための手段で、手の形や動きを組み合わせながら話し合っている姿はテレビなどでも見かける。さし当たって私のような映画好きの人間は高峰秀子が好演した「名もなく貧しく美しく」を思い出してしまうのだ。それでも手話をする人の一様に楽しそうな表情で気持を伝えあっている様子には救われる。気のおけない人には何かを訴えたいと願うのであろう。さてこの句、作者は「間あひを見つめ合ひ」と言う。間合いという距離感、それは相手の心情をうかがうに必要な空間であると共に互いに見つめ合う緊迫の時間がそこにある。表情の背後にある微妙な気配を「花冷」は伝えてあますところがない。季語の配慮に揺るぎないものを感じる句である。 「序」より紹介した。ほかに、 寒晴や肩いからせる服を着て 鶏頭の思ひ思ひの丈にをり 起き直ることに全力兜虫 生ぬるき水を喉越し広島忌 笠ぬちの翳に面や風の盆 などの句をとりあげて鑑賞をされている。そしてほかにも句を紹介して「抄出していると、まだま好句が現れる感じもする。それはこの作者がおのれの目を、おのれの心を信じて対象を明確に言い止めているからであろう。何よりも俳句十七音を天空のように信じ切っている人のように思える。それがこの一集のなる恩寵(おんちょう)でもあろう。」と結んでいる。 わたしは著者の武田佐自子さんが俳句をつづけてきた40年と言う月日を思う。一口に40年と言ってしまえばそれだけだが、20歳のときに始めたとしたら60歳、30歳の時なら70歳、40歳なら80歳である。その人の人生がつくりあげられていくたっぷりの時間だ。武田さんは37歳のときに俳句をはじめ、いまは77歳の方だ。そして初めての句集。感慨無量なものがおありになるにちがいない。 鯉の上を鯉のすべりて温む水 路地裏へ水の匂ひの初つばめ まばたけば土筆そこここ泛かびけり 梅漬けし夜は母の香のたなごころ 老後てふ母つゆくさの露まみれ 商ひの灯を濃く点す初しぐれ まんさくや流水つまづきては光る 師の墓のひた濡れてなほ春の雪 (山口草堂先生一周忌) 托鉢の目のまつすぐにあたたかし 葉鶏頭遺影へ問うてゐたりけり 看取りより戻る灯下の葉付き柚子 饒舌のをとこのかほへ冬の蠅 福耳にささやいてゐる雛かな 秘めごとなき母の遺品や鳥雲に 禱りとはひたすら歩く落葉みち らつきようの漬かる日数を妹亡し やうやくに諾ふよはひ木の実降る ドラム缶ふいに音して秋の暮 べからずの立札のある春の土 端つこのもつとも騒ぐ燕の子 決心のいまはればれと夏帽子 日盛りの引き返しくる真顔かな 今日のこと記す三行茶立虫 行き先を聞かざる別れ十二月 著者の40年の歳月がこめられた句集には、母の死があり妹の死がありそして「柩を送る」句が多くある。静けさの余韻ただようこの句集には著者の悲しみが織り込まれている。わたしは著者の武田佐自子さんにお目にかかったことはないが、きっと物静かな辛抱強い眼差しを持った方なんだろうと思う。著者の優しい歩みにいつも俳句が寄りそっていた。 この度南風俳句会に入会してより四十年になりましたことを機に、思い切って句集を編むことにしました。自作を振り返ってみてその拙さを改めて自覚しておりますが、この反省をもとに句集上梓を起点として一歩ずつ前に進みたいと思っております。句集名の「匙」は私の名前と併せて、これからの句作りに俳句の核心の一滴を少しでも掬い上げたいとの願いを込めて付けました。 「あとがき」の言葉である。「佐自子」とはなんと素敵な名前だろうと思った。その名前の一部をとって「匙」とはまたなんと心にくい。 この装丁は和兎さん。 白とシャーベットグリーンが基調の淡々とした本となった。 この句集の担当は愛さん。 冬立つや身丈に余る楽器負ひ という句が好きであるということ。「なんだか仙川の風景みたいじゃないですか」と愛さん。たしかに桐朋音大のある仙川には楽器を持った音大生が多い。ときには目を見張るほどの大きな楽器をもった学生もいる。 わたしは次の句がいい。 ふり向けば見送られをり冬日和 後半にある句だ。あたたかな眼差しに囲まれた著者の人生がある。 13日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」に、永田淳歌集『湖をさがす』より一首が紹介されている。 食卓に「明日の玲」へと手紙置き寝(い)ねにゆきたり「きのうの玲」が ここにいるのは明日の自分に手紙を書く子ども。大人は昨日の自分も明日の自分も同じ自分と思っているが、子どもにはそうでないのかもしれない。大人も昨日まで子どもだったのにそれを忘れている。手紙には何が書いてあるのだろう。 わたしも知りたい。なんて書いてあるのかを。 そして昨日のねんてんの今日の一句は、峯尾文世句集『街のさざなみ』より。 醤油濃き煮炊きを釣瓶落しの日 「醤油濃き煮炊き」は「釣瓶落しの日」によく合っている。合いすぎるくらいかなあ。たとえば鰯と梅干をゆっくり煮て吟醸酒で一杯なんてどうだろう。釣瓶落としの夕暮れにはそんな光景がふさわしい。この句、句集『街のさざなみ』(ふらんす堂)から引いた。作者は1964年生まれ、「銀化」に拠っている。 わたしも一昨日の夜、「醤油濃い煮たき」をした。大根とバラ肉をつかって「豚の角煮」をつくった。調味料は黒砂糖と醤油のみ。大根の輪切りをさらに大雑把に切り、バラ肉もやはり大雑把に切ってエイヤッとルクルーゼの鍋に投げ入れそこに黒砂糖と醤油をいれて蓋をして火にかけ沸騰してから弱火で10分くらい炊いてそのあと蒸らすというもの。すごく簡単で美味いのだ、これが。お試しあれ。 あまりヘビーじゃない赤ワインで食するのをおすすめします。 一人お客さまがあった。 俳人のいさ桜子さん。 ゲラをもってご来社くださった。 「20年飼っていた猫がこの夏に死んでしまって」と涙ぐまれた。 写真を見せてもらったのだが、可愛いアメリカンショートヘアーの猫が写っていた。名前は秋(あき)ちゃん。雌猫だそうである。 「20年一緒に暮しているといるのが当たり前になってしまって……」 いるのが当たり前ってようく分かります、とわたしの猫たちはまだそんなには生きてないけどわたしはそう答えたのだった。 猫のことをお話していたら写真を撮らせていただくのをすっかり忘れてしまったのだった。 失礼をいたしました。 いさ桜子さま。
by fragie777
| 2012-10-15 20:03
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||