カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
9月18日(火)
朝出社すると、スタッフのPさんが、 「ここ数日でいっきに太られました?」って言う。 (なに、それ……)と思ったが、 「ああ、髪を切ったからよ。」って切り返す。 そうは言ったものの、いやだな、気になる。 今日家に帰ったらまっさきに体重計に乗るつもり。 しかし、体重計は変わらずに太ってみえるとしたら、髪を切ったことが原因であるわけなので、それもやはりいやだな……。 と微妙な女心である。 新しい本を紹介したい。 頓所友枝句集『冬の金魚』(ふゆのきんぎょ)。第一句集となる。 四六判ハードカバーの函入りの本である。最近はこのような函入りの本がめっきり少なくなった。改まった感じでいいものだ。 著者の頓所友枝(とんしょ・ともえ)さんは、俳誌「沖」(能村研三主宰)に所属し、能村登四郎、林翔の二人に俳句を学んで来られた方である。句集名は「冬の金魚」。 東京の死角に冬の金魚かな に拠る。この句について主宰の能村研三氏は次のように鑑賞している。 東京での金魚の養殖地は最初本所や深川辺りであったそうだが、昭和に入ると都市化の波に押され、江戸川に近い一之江などの湿地帯に移り変わってきた。正に東京の死角とも言うべき位置にある。 「冬の金魚」に込められた著者の思いがあるのだろうか。鮮やかな紅色を保ちながら都会のただ中の日の当らぬ冬の寒さに耐えている金魚になにかを托していると考えるのは穿っているだろうか。しかし、著者のいまの境遇を思うと冬の金魚が心に迫るものとして浮かびあがってくるのだ。句集の後半に「長男交通事故に遭う」という前書きのある一連の作品にわたしたちは出会う。 寒椿赫きなみだを流しけり 病廊の慟哭を射る寒の月 狂ふてふ逃げ道探す虎落笛 臘梅やきのふに還る道なくて 癒ゆるてふ未来なき掌のあたたかし 白梅の満ちて声なき子となりぬ 平成十七年の暮に息子が交通事故に遭い、意識障害者となりました。生活は一変し、病院と自宅を行き来することになりました。完治することのない状態ですから、長期入院も難しく在宅療養を進言され、初めて介護のための勉強や、自宅の改修などの必要に迫られました。幸い意識障害者専門の療養所に入所でき、三年間かけて介護の指導を受け、平成二十二年在宅療養となりました。療養所を退所するときの挨拶文に私の息子を詠んだ句を添えたところ、同じ状況の方々から共感していただき、皆さんの気持を代弁してくれた、と喜ばれた時、私には「俳句」を通して表現できることを有難く思いました。平成五年より始めた「俳句」ですが、週末の殆どを句会に参加できたことは家族揃っての健康があってのことと痛感し、改めて家族の応援があってのことであったことを、再認識しました。息子が在宅療養となり、多くの方のお力添えをいただき大過なく二年の月日が経過しました。今は夫と交代で介護する毎日を送っています。かつてのように自由に行動できる時間はありませんが、一日一度は外に出て俳句の材料を探しております。俳句を続けていたからのことと感謝しております。 「あとがき」より引用した。一男二女のお子さんの一人息子さんが成人してから不慮の交通事故に遭われたのだ。ご家族の嘆きは推し量る悲しみを越えたものだろう。句集には子どもたちがかなり登場する。いかにその存在が頓所さんにとって大きなことであるがわかる。 受験子を黎明の駅に送りやる 芽起こしの雨やはらかや子は旅に さくらんぼ恋してるらし子のみやげ 地球儀の裏に子の発つ炎暑の日 おふくろといつしか呼ばれ青木の実 春雨に濡れ戻る子に男の香 三年を留守にせし子と初桜 初電話南半球の子を起し 国境を越ゆる子の恋白木槿 白露に朝の日満ちて嫁ぎゆく こんな風に句集のいたるところに娘や息子の顔がある。そんな子どもたちと共にあった喜びの日々が突然の事故によって重く垂れこめた日々に変わっていく。この句集において、季節は、人の心を通して、あるいは人の心を反映しながら輝いたり曇ったりする。季語や物に托して心情が詠われている作品が多い。 守るものふゆる齢の白日傘 来し方に貫くものや単帯 夫の背に答を探す無月かな ポインセチア微熱の眼あつくせり ひとり居の母と語れよ冬木の芽 十日ほどさくらに空を預けをり 遠足の端に父ゐる写真かな サングラス母校の前ではづしけり 空蟬の放さぬ門に鍵かくる 秋の暮見知らぬ街の地図を買ふ 白湯のんで声新しく神無月 いつか逝くいつかを知らず日記買ふ 沼の底見てきしやうな牛蛙 水平に時の流るる植田かな 拭きあげし玻璃戸に透けて去年今年 柿若葉生れて二日のこゑ光る 詩ごころの生まるるまでを虫の闇 師にいろのあらば紺碧鷹渡る 洗ひ髪乾く間に打つメールかな 呼びかけに親指動く目借時 着膨れて交代に寝る看取りかな この句集の跋文は、著者が俳句をつくるきっかけとなった池澤正夫氏が寄せている。池澤氏は、娘さんが通っていた高校の第五代校長でそこでPTA活動の一環として行われていた句会の指導者だった方である。句の鑑賞を丁寧にされているその一文を紹介したい。 燈を消して音の生まるる春の雨 今まで聞いていて聞こえなかった雨の音を、灯を消した闇の中で鋭くなった聴覚が捉えたのである。雨の音は森羅万象にこもる春意の象徴である。虚子に「もの置けばそこに生れぬ秋の蔭」がある。 頓所友枝さんとは同世代でともに俳句をつくることで切磋琢磨してきた主宰の能村研三氏は頓所さんの良き理解者でもある。その序文は頓所さんへのあたたかな励ましの言葉で終っている。 友枝さんは私と同じ年齢、お子さんたちの年齢も同じで、友枝さんにとって避けては通れないその置かれた人生に、他人事とは思えない思いでいる。医学の進歩を信じて、決して諦めない信念で介護生活を続けながら、これからは、俳句でも新しい境地を開いてほしいと願うものである。 こうした頓所さんの境涯を思うとき、「冬の金魚」というタイトルが悲哀と希望の象徴のように立ち顕れて来る……。 この本の装丁は君嶋真理子さん。鮮やかな金魚の色がまず目に飛び込んでくる。 題字の銀箔が金魚の朱の華やかさに冬の寒さと厳しさと強さを感じさせる。 この句集の担当は愛さん。愛さんは次の句が好きであるという。 もう誰も弾かないピアノ雁渡し 「わたしの実家にも誰も弾かなくなったピアノがあるんです」ということ。誰も弾かなくなったピアノほど淋しいものはない。下手でも弾いてくれる人間がいるとピアノは輝きだすのだ。わが家はさしづめいまフォーレの無言歌第3番が朝から鳴り響いている。 わたしの好きな句はこれ。 そこまでのつもりの素顔柿の花 「素顔」と「柿の花」の取り合わせがいいし、「そこまでの素顔」という叙法がさすが上手いと思う。このくらいのはじらいがあるといいんだけど、わたしなんかこの歳になってもノーメークでいろんな所に平気で行っちゃのだ。「素顔に自信がある」って、いいえ、全然ないけどふてぶてしいだけよ。 頓所友枝句集『冬の金魚』は、息子さんの事故とその介護の日々を乗り越えて世に出された句集である。その重みを今しみじみと感じている。 頓所友枝さま。句集のご上梓をこころよりお祝い申し上げます。 昨日の毎日新聞の大辻隆弘さんによる「短歌時評」に永田淳歌集『湖をさがす』が取り上げられている。タイトルは「30代の覚悟」。 きらびやかな青春歌を作っていた若者が三十歳になると短歌を辞めてゆく。そんな光景を私は何度も見てきた。青春が終わった時、人は歌う理由を失ってしまう。三十代をどう乗り切るか。それは歌人にとって大きな問題なのだ。 という書き出しではじまり、永田淳『湖をさがす』、生沼義朗歌集『関係について』、田村元『北二十二条七丁目』の三冊の歌集が取り上げられている。ふらんす堂刊行の永田淳について紹介したい。 どこまでも入道雲の高き昼母の実家は湖辺にありき 永田 淳 永田の歌集には昨年一年間、町日作られた三百六十五首が収められている。肩の力を抜いて短歌というものとじっくり付き合ってゆこうとする覚悟が感じられる歌群である。母親である河野裕子を悼む歌が多いが、そこには気負いが全く感じられない。自然体の文体が実に心地よい。 関係をひとつ見送る日曜に一回性の雨は降りおり 生沼義朗 藤棚のやうに世界は暮れてゆき過去よりも今がわれには遠い 田村 元 永田39歳、生沼37歳、田村35歳。彼らは歌というものを生活の支柱とすることによって往きづらい三十代を耐えている。歌人であろうとする明確な意志が、彼らを自立した歌人たらしめるのだ。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、林昭太郎句集『あまねく』より。 秋耕の人折り返すとき光る ゴッホの「種まく人」は、ミレーの代表作「種まく人」とほぼ同じ構図で描かれる。ゴッホは「ミレーが残した『種まく人』には残念ながら色彩がない。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうと思っている」と手紙に記した。そして、彼は地平線へと沈む太陽を強烈な色彩で描いたのだ。ミレーの落ち着いた色彩もよいが、農夫の背負う輝きをどうしても描きたかったゴッホの気持ちもよく分かる。土と会話し、育て、収穫する。たとえ真実の晴天のなかにあったとしても、彼らがまとう光は特別なものとして、見ている者の目には映る。耕す人の元に鳥たちが集まるのは、土を掘り返すことで地中から飛び出してくる蛙を狙っているのだという。やわらかい光のなかで、さまざまな命のやりとりが静かに続いている。〈かなかなや水の慄へる金盥〉〈爽涼や風の器となる破船〉『あまねく』(2012)所収。 お客さまがひとりご来社くださった。 「ふらんす堂通信134号」のためのお原稿を持って。 馬郡民子(まごおり・たみこ)さん。 昨年の6月にふらんす堂から句集『木偶』 を刊行されている。 前回ご来社下さった時はまだ以前のふらんす堂だった。 「とてもきれいになりましたねえ」とまぶしそうにふらんす堂内を見まわされた馬郡さん。 「有難うございます」と申し上げたものの、なんせ以前のふらんす堂は蟹歩き(横に歩く)しかできないほど物に溢れ狭く汚かったので…、この仕事場は決してそうならないように注意が必要である。 少しお話して早々に帰っていかれた馬郡民子さんだったが、久しぶりにお目にかかれて嬉しかった。
by fragie777
| 2012-09-18 20:05
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||