カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
9月10日(月)
まだまだ残暑が厳しいようだ。 髪を洗うのをサボっていたら頭が痒くなってきた。 ヤバイ! 今日はぜったい洗髪をしよう。 (何日サボったかは、ヒ・ミ・ツ) (yamaoka的には、何日が我慢の限界か……)←実験的試み。 昨日の毎日新聞の酒井佐忠さんによる文芸時評「詩歌の森へ」は、片山由美子句集『香雨』についてだ。タイトルは「句集『香雨』の美と寂寥」。 片山由美子の第5句集『香雨』を読む。「香雨」とはいかにも作者らしい美的な感性にあふれた題だ。中国古典詩にある言葉で、初夏の香(かぐわ)しさを感じさせる雨のことという。その雨が季節と人間を「けはい」でつなぐ。〈滴りを跳ね返したる水面かな〉〈雨の日の午後しづかなる桜餅〉〈あけぼのや春の音とは水の音〉。雨は、心の滴りでもあるのだ。〈日傘たたむ日傘に視線感じつつ〉とたたむ日傘に送られる微妙な視線を敏感に感じとる句もある。だが、ここで気をつけなければならないのは、作者はただ、淡い美的な感性に感応しているだけではないことだ。〈断崖をもつて果てたる花野かな〉〈初雪や積木を三つ積めば家〉〈命あるものは沈みて冬の水〉などの句から見える命の果ての寂寥を、作者は感受している。それはこの句集を特色づけるいわゆる「海外詠」にも現れる。〈鳥葬の空寒禽の声もなし〉(イラン)、〈カスバより海を見おろす薄暑かな〉(アルジェリア)、〈冬夕焼ビルの弾痕浮彫りに〉(レバノン)など、日常の中の光と闇を読みとり、観光俳句とは一線を画している。若き日に「西洋音楽」に親しんだ作者ならではの海外文化への眼差しが生きる。旅もまた日常。俳句を通し、さらに広い世界に心を遊ばせている。 新刊紹介をしたい。 峯尾文世句集『街のさざなみ』(まちのさざなみ)。 著者の峯尾文世(みねお・ふみよ)さんは、俳誌「銀化」(中原道夫主宰)に所属し、この度の句集が第二句集となる。第一句集は『微香性ーHONOKA』。 帯文を中原道夫主宰が寄せている。 夏萩の無残をけふのはじめかな 第一句集第一句集は『微香性ーHONOKA』から十年。謐かに沈潜していた峯尾文世の第二句集である。その間の試行錯誤は以前にも増して、しなやかな言語空間を構築していて興味深い。年齢的にも成熟しきった一女性の希求する俳句は匂やかな”表象”となって、私共、物憂い男達を脅してくれる。 中原道夫氏の帯文だ。 「しなやかな言語空間を構築してい」ると中原さんは書かれているが句集を読むとそのことがよくわかる。 汁に麩の浮かむや春の火事らしき きのふけふさかひなだらか青葉木莵 ゼリー揺れ自分を許さうかと思ふ 大年のソファーに深き海ありぬ 富士をさすその指の手話あたたかし 春うれひときどきごま油のにほひ 休日を広く使ひぬ籘筵 頰杖に翳あるほたるぶくろかな 柚子湯出てしまらく書架をとほざくる 折鶴のふつくらと松過ぎにけり 灯ともしを早める水の澄みにけり こすもすの胸がどきどきする高さ 秋晴れが鏡のなかにしか見えぬ 打つよりも引く波音のはつむかし ことばに精通していてことばの使い方が自在だ。五七五の定型を豊かにふくらますことができる人と言ったらいいだろうか……。 この句集に大輪靖宏氏が栞を寄せている。タイトルは「新鮮な表現と発想」 文世俳句の特徴の一つは、表現に一ひねりされたものがあり、その特異さが対象を描き出すのに効果的に働いていることである。 夕鐘の色しみわたる夏座敷 開け閉ての音の短し梅雨籠 文語的暗がりに柿灯りゐる 灯は音を持たずさくらの蕾かな 三尺の空に足りたる螢かな 浅草に川あり冬をなみなみと 文世俳句のこうした表現技術は正確な写生力から生じたものである。そうして、文世俳句のもう一つの特徴は、こうした写生力の上に発想の大きな飛躍が重ねられることである 花嵐居留守のごとき修道院 うなだるる葉にして強し半夏生 地上絵は消えぬものなり原爆忌 羽繕ひまた羽繕ひ納税期 こうした飛躍した発想の妙は、理屈を通り越して感覚の世界にまで広がっている。中には理屈で説明してしまってはつまらなくなるものもある。従って、文世俳句を味わうには読者の方が感覚を研ぎ澄ます必要がある。こうした魔法のような表現世界の中で遊ぶことができるのが、文世俳句の魅力である。 「魔法のような表現世界」と大輪氏が書くように、俳句の表現技法に習熟している俳人だとわたしは思った。そういう作品のなかでわたしはきっぱりとした景の見える俳句が結構好きかもしない。 往来のこゑ近くある初湯かな 蚕豆を駄賃のやうにたなごころ 教会の裏の干草泣きにゆく 縁側のうぐひす餅に呼ばれたる 返礼のすがしき水を打ちにけり 長靴の底にまじるや羽蟻の死 やすやすと西にかたよるおでん種 峯尾文世さんはいかなる方法によっても俳句を詠める人だと思う。そんな技法の高さを思わせる方だ。 この一〇年間は、身の回りの素材を中心に、常に〈語らぬ俳句〉を心がけてまいりましたが、決して充分なものになってはいないと思います。今後は、所謂自然詠を増やしながら、この心がけとともに、一句一句を、よりゆっくり、じっくり読んでいただけるようなものを作り続けていきたいと思っています。句集名「街のさざなみ」は、自然と街とをバランスよく受け入れながら、スマートに生きていきたい、というこれからの俳句に対する想いを少し込めてみました。 「あとがき」のことばである。 「どこまでが都心どこから春の泥」集中にある句がふっとに浮かんだ。 「語らぬ俳句」を心がけるというのが、自在な俳句表現をできる俳人だからこそ深まりを感じる。ますますの高みを目指していける俳人だと思う。 装丁は俳句の師でもある中原道夫さんが手がけた。著者をよく知る中原さんならではの装丁だ。 峯尾文世さんがもっているエレガンスがカッコよく表現された。 この淡いピンク色に銀の箔押しというのが大人の女性を感じさせてなんとも心憎い。 模様のある用紙である。 この花切れの用い方も中原さんらしい組み合わせだ。 中原道夫さんのブックデザインは、いつも思うのだが「ある恰幅と迫力」がある。それは女性の句集を手がけたときでも変わらない。それがひとつの魅力でもある。いつも装丁を貰うときどんな思いきったものが出来上がってくるのだろうと緊張するしワクワクもする。 担当の愛さんは、中原さんの思いを製本屋さんに伝えるべく大汗をかきながら奮闘することになる。わたしたちがやったことのないような意匠で臨んでくることが大ありなのだから……。やがてそれもまた本づくりの楽しさとなるのであるが……。 階段に座るをとこの春の雪 春満月なんてしらじらしい手紙 新涼のさざなみに似し手紙あり 息継ぎの下手な六月生れなり 三島由紀夫の小説ではないが、春の雪と男はよく似合う。映画の一こまを見ているようだ。峯尾さんは美しい方なのできっといろんなお手紙を貰うんだろうなあ……。「新涼のさざなみに似し手紙」なんてどんな手紙なんだろう。すごく素敵な手紙に思える。息継ぎがヘタって、どういうことなのかしら、しかも6月生まれだからって。これは今度峯尾さんにお目にかかったときに聞いてみたい。 多彩な世界をもつ句集となった。 さっ、 洗髪をするぞ! カユイ、カユイ…… と言いながらyamaoka、バスルーム(風呂場)へ消えて行った。
by fragie777
| 2012-09-10 20:06
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||