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8月17日(金)
新刊歌集を紹介したい。 山田航歌集『さよならバグ・チルドレン。 好評の歌集だ。 「スタートラインに立てない全ての人のためにー」 扉の裏におかれた献辞である。 山田航(わたる)さんは、1983年生まれ今年29歳になる若者だ。その第一歌集となる。タイトルが「さよならバグ・チルドレン」と聞いたとき、「ムムムム、何よそれ」って驚いた。わたしもかつてワカモノであったときがあったが、どうやら当世のワカモノとわたしがワカモノであったときのワカモノがずい分違うようだ。「バグ」っていうのをどう考えたらいいかしらって担当のPさんに聞いたところ、ちなみにPさんは山田航さんと同じ歳、「バグってパソコン用語で使うでしょう、壊れたとかそういう意味だから直訳すれば壊れた子どもたちっていうことかな」ということ、「あとがき」を読むと「バグ・チルドレン」とはご自身のことでもあるらしい、「社会に適応できないいびつな人間」という風にも書いている。傷つきやすく内向しドンクサイ自分を持て余し収拾不可能な状態にあえいでいる自分がいる。 あの頃の僕は、自分を取り囲むあらゆる視線を鋭利に感じていた。しかし交差点の中央に立ち止まって曇天を見上げてみても、世界を呪う気持ちはまるで起こらなかった。呪っていたのはひたすらに自分のこと。自分の体ひとつもうまく制御することができないこの心。何かが壊れてしまっている心と体の接続部。自分はいびつな存在なのだ。僕は自分の姿をちゃんと見つめることがずっとできていなかった。怖くて避けていたのではなく、本当に見ることができない。普通の人は違う。もっと自然に自分と付き合えるんだ。二塁手が涼しい顔をして牽制球をキャッチするように、心と体をスムーズに連動させていける。心に思い浮かべたイメージ通りに体を動かしていける。それが自分にはできない。何をしてみたって、心と体はばらばらなままだった。 「ホームランを打ちたかった」と題する「あとがきに代えて」から一部を引用した。 しかし、「さよならバグ・チルドレン」なのである。このタイトルにはそういう状況の自分を超えていこうとする山田さんの意志がある。そしてそのような方向に向かわせたものが「短歌との出会い」だった。 ああ檸檬やさしくナイフあてるたび飛沫けり酸ゆき線香花火 地球儀をまはせば雲のなき世界あらはなるまま昏れてゆくのか やや距離をおいて笑へば「君」といふ二人称から青葉のかをり 向日葵の斬られて倒れゆくまでの巨き時間を真夏と呼べり 僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる 夏はゆく何度でもゆくだから僕は捕まへたくて虫籠を置く 最初の「夏の曲場団」より数首紹介した。この歌集に穂村弘さんが解説を寄せている。「『五つ目の季節』の歌」というタイトルだ。「夏の曲場団」の一連の作品を読んで「その圧倒的な抒情性に舌を巻いた」と書き、山田航の歌人としての作風を次のように分析してみせる。 作者の歌風は先人から多くを学んだことを感じさせるものだが、印象として最も近いのは寺山修司だと思う。本書に鏤められた「荒野」「祖国」「望郷」「生命線」「地下道」「映写技師」「父の書斎」「麦揺れて」「舞台」「カヌー」「揚羽」「帆」「嘘」といった語彙にもその影響は明らかだが、何よりも作り物の形で真実を叫んでしまう詩性の質が似ている。寺山が「母」「父」「故郷」について虚構を展開する形で拘り続けたように、山田航もまた世界を自在に仮構しながら、何度も同じ所にもどってくる。自らの表現の根から離れることがない。「さよならバグ・チルドレン」というタイトル、そして「スタートラインに立てない全ての人たちのために」という献辞からも窺えるように、そこにあるものは特異な喪失感、不能感である。 「特異な喪失感、不能感」と穂村さんは書くが、この感覚はいまの若者たちをすくなからず襲っているものなのかもしれない。だからこそ「チルドレン」であり「全ての人たちのために」とあるのだ。わたしがワカモノだったころ、確かに青春期特有の疎外感や喪失感はあった。しかし今のワカモノのそれは、わたしたちの比ではなく、まさに「バグってしまった」「壊れてしまった」もの、存在そのものに楔を打ち込まれてしまったかのように生きにくさは一〇〇〇倍以上だ。かつては少しばかり悩めるワカモノであり、今はすっかり元気なおばさんとなり果てたわたしなどが当世のワカモノを見ると「生きにくそうだなあ……」とため息がでることがある。彼らが背負った深い傷はわからないけど、窒息感と閉塞的状況はわかる。そういう意味でこの歌集も、もうとうにスタートラインを走り出し、世の中の波風にさらされながらもヘラヘラしながらガッツリ生きてきたおばさんであるわたしが読んでいいなあ、と思った歌を少し紹介したい。あなたの好きな歌はまたもっと別なものかもしれないけど……。 花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに もう二度と上塗りされることのないカンバスに僕の好きだつた木 てのひらをくすぐりながらぼくたちは渚辺といふ世界を歩む ともに見る月のしろさに笑つたあとも君は遥かな夏を見る人 紋白蝶は二つに折られた手紙だと呟いたきりの横顔がある 選択肢は三つ ポピーに水を遣る、猫を飼ふ、ぼくの恋人になる 鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく こころとは口広き瓶ぬるまつた真水にしづむいくつもの杏 やはらかなてのひらがすくふ水があるその水がぼくに注ぎ込まれる いまひどい噓をきいたよ秒針のふるへのさきが未来だなんて 夏をのぼる雲のかたちに動かざる紐栞あり新刊本に ぼくたちは尾びれをリボンでつながれたランブルフィッシュひどくさみしい 永遠に出走しえぬ馬のごとひしめき並ぶ放置自転車 またの名を望郷魚わがてのひらの生命線を今夜ものぼる 噴水に腰かけ授乳してゐたる女はみづのつばさをまとふ 自販機の取り出し口に真夜中をすべりあらはるつめたき硬貨 自転車は波にさらはれ走り去るものみな君に届かぬ真夏 笑ふより泣くより怒るより前を見つめ続けるといふ感情 この本の装丁は君嶋真理子さん。山田航さんはとても気に入ってくださった。 この歌集は夏に刊行されるのが一番ふさわしい。歌集を読んでいてふっと思った。 そして思いもかけず夏の季節の刊行となった。 そして著者略歴に山田航さんの思いがある。 風に夜に都市に光に怯えてる僕の背中を登りゆく蟻 「風」「夜」「都市」「光」、つまり「僕」は自然と人工からなる世界の全てに「怯えてる」ことになる。だが、その「背中」の絶壁を登りゆく小さな「蟻」は、怖れという機能をもたない勇気の塊なのだ。 これは解説を書かれた穂村弘さんの山田航さんへおくるこころからのエールだ。 この本の担当はスタッフのPさん。山田さんと同じ年齢のPさんに聞いてみた。「どの歌が一番好き?」って。するとPさんは次の短歌をあげた。 少女とは目を瞑るもの断ち切つたはずのリボンも結びなほして 「どうして?」と聞くと「ここに詠われている少女がカッコいいじゃないですか。わたしはこんなカッコいい少女じゃなかったから憧れもふくめて」ということである。 わたしはこの短歌に笑ってしまった。結構好きだな。 さみしいときみは言はない誰のことも揺れるあざみとしか見てゐない これは相手をちょっと批判的に詠んでいるわけだが、わたしこんな女かもしれない。「揺れるあざみ」が面白くて笑える。でもこんな女性になっては駄目よ。 世界と対峙するための身体として、僕は五七五七七を手に入れたのだ。夏のはじまりが近づいていたあの日、初めて僕の目の前に、一筋のスタートラインが引かれた。 すばらしい「あとがき」の最後の文章だ。 靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン 山田航さん、第一歌集の刊行おめでとうございます。 真っ白なスタートラインを踏んで大きくジャンプしてください。 あの「時をかける少女」のように。 **** yamaoka ここで夕食タイムをとる。 玄米ご飯とピーマンの肉詰めと南瓜の煮物とキュウリと茗荷のお漬物と油揚げの味噌汁だった。 昨日お客さまがご来社くださった。 句集の相談に見えられたのだった。 桑田真琴(まこと)さん。 俳誌「野の会」(鈴木明主宰)に所属し、俳句をはじめてもう11年になるという。 「句集をどこで出そうかいろいろと考えたんですが、ふらんす堂さんは若い女性が多く、楽しそうなので…お願いしようと思いました。」と桑田さん。 「若い女性が多そう」ということばにわたしは机の下に隠れたかった。 (すみません。わたし一人が平均年齢を上げています) わたしは急いで担当の愛さんを紹介したのだった。
by fragie777
| 2012-08-17 21:34
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