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6月4日(月)
道路の端にひしめくように植えられていたほおずき。花はみんなうつむいていてなかなか目立たない。葉の緑が美しいでしょう。 NHKの大河ドラマを見る習慣はいままでとんとなかったのだが、今度の「平清盛」だけはちょっと興味があって見ている。視聴率も低く巷ではすこぶる評判が悪いらしいのだが、わたしにはかなり面白いドラマだ。なんせいままでの大河ドラマを見て来なかったので比較するすべもないのだが、おしなべて俳優たちがいい。主役の松山ケンイチはともかくも、のちの後白河法皇となる雅仁親王を演ずる松田翔太が抜群にいい。ほかにも阿部サダヲや三上博史などキッカイでゾクゾクするのだが、特に殿上人を演じる男たちが気持悪くて面白い。松田翔太の華麗にして毒を含んだ艶のある演技にわたしはすっかり魅了されてしまった。御白河法皇って、若いうちからしたたかで嫌なヤツだったんだろうなあ……ああ、しかし美しい。視聴率はあんまり気にせず分かりやすくしようなどとも思わず、この調子で突っ走って欲しいとわたしは思っているのだけど……。 さ、新刊紹介をしたい。 吉田成子句集『日永』(ひなが)。第三句集となる。著者の吉田成子(しげこ)さんは、桂信子に師事し、桂信子亡きあとは俳誌「草樹」の発行人となり力を尽くされている方だ。平成6年から23年までの17年間の作品を収録している。この17年の間に父上を亡くされ、師桂信子の死に遭う。大切な人を失った歳月でもあった。 この度の句集に宇多喜代子氏が跋文を寄せている。「さりげなくゆたかに」というタイトルだ。 何見るとなき父の昼水中花 朧夜の遺体に添うて帰りけり 仰ぎみる風の青葉や父逝きぬ 遺されしものの皿音青葉の夜 泣きながら新じやがを剝きはじめたる 父を送り、さらに幾度かの桜の季を迎える。そんな四序のなかでの大事小事を平明にして丁寧なことばで句にとどめてゆく。この句集の基調には、無理をせず、淡々とわが俳句をつくってきた吉田成子の力のほどがゆたかに流れている。 宇多さんの跋文である。「日永」という句集名からもこの作者の人となりが彷彿としてくる。 用なくて二階へ母の来る日永 という「日永」の句があるが、この作品をとおしても著者の日常が見えてくる。あたたかなのは「日永」の季節となっただけではない。著者のいるその空気があたたかななのだ。 集名としました『日永』は私の好きな季語の一つですが、時の流れが止まるかのような日永の情趣を、ここ数年は特に心地良く思います。これも齢を重ねたせいかもしれません。日々心身の衰えを意識する年齢になりましたが、今後も変りなく淡々と作り続けたいと思っています。 「あとがき」のことばである。ことさらに奇異をてらうことなく身辺をゆったりとした気息で詠んでいる。それが魅力の句集だ。 ぎんなんを採りし袋か日当れる ごはんつぶつけて寝る人夏の雨 完全に死んでゐるかと蟬つつく 母が居て叔母が居て桃咲きにけり とりあへず飯を食ひたる暑さかな 電柱の丈見つくして寒きかな 衣更へてより何事もおほざつぱ 冬休みあの子この子に木が暮れて 父に似て焦げ飯が好き桜咲く どの木にも雨の降り出す秋の寺 散らかしつぱなし喪ごもり冬ごもり 金魚鉢傾け金魚傾かず 振つてみてみんな空箱十二月 次の世も桃になりたき桃の種 寒の土間だだつぴろくて匂ひけり 日影から日向見てゐる終戦日 八朔や今日あきらかに風に色 豊年の灯を煌々と眠りをり みんなゐてみんな亡き人星月夜 立ち読みのうしろに日傘開く音 生きてゐる顔がうつすら薺粥 ご本人はとても真面目なお方なのだと思うけど、どこかとぼけた味わいのある句がけっこうあってわたしは好きだ。「とぼけた」というよりもなんて言ったらいいのだろう。無駄なことをする余裕というか、人生への向き合い方に遊びがあるというか、たとえば、「蝉」の句、子どもみたいにあえてつついて死んだことを確かめたりすること、「電柱の丈を見つくして」寒いと感じたり、ふつう電柱の丈を見つくしたりします?、「金魚鉢」を傾けて「金魚」が傾かないことを確かめたり、ことごとく「空箱」をふって空箱であることを確認する、いいなあ……子どもだった時の時間がまだ吉田さんのなかに生きているようだ。そういうお人だから「立ち読み」もよくなさるかもしれない。物事をすべて効率で処理しないゆとりがすごくいいのだ。無駄なことをする素敵さ、いや無駄なんて思っていない、そのゆとりが俳句に向き合う姿勢に反映していて(俳句だって無駄なことかもしれない……というと叱られるかな)その大らかさが気持いいのだ。こういう方にとって時間は人よりもゆっくりと流れていくだろう。アクセクセコセコしないのだから。短兵急に結果を求めることもきっとしないだろうと思う。「時の流れが止まるかのような日永の情趣を、ここ数年は特に心地良く思います。」という「あとがき」の言葉が改めて立ちあがってくる。 この本の装丁は和兎さん。 和の趣のなかに現代感覚を取り入れたブックデザインになった。 ふらんす堂としては珍しく特色印刷ではないカラー印刷となった。しかし、用紙に紬風のものを用い書体も教科書体にして派手すぎず上品に仕上がったのではないだろうか。カバーと帯は金箔を用いた。用紙の風合いを見てほしい。 17年間の密度の濃い句集にふさわしい品格のある句集となったのではないだろうか。 晩年の桂信子先生にはいろいろとお心にかけていただいた。そういう桂先生と深いご縁のある吉田成子さんの句集を刊行させていただけてあらためて嬉しく思っている。 今日の毎日新聞の「新刊紹介」で、この吉田成子句集『日永』(ひなが)が紹介されている。 八朔のどの木も朝の雨雫 所属誌「草苑」終刊のあと、「草樹」を発行人として支える著者の第3句集。昨年までの17年間の作品を収める。力むことなく立ち上がる一句一句にすがすがしさが感じられる。 午前中にお客さまが二人見えられた。 鈴木良戈さん智惠子さんご夫妻。 鈴木良戈さんがご指導されている俳句会の合同句集のお原稿を持っての来社だ。 鈴木智惠子さんは句集『花あかり』と句集『花おぼろ』の二冊の句集を刊行されている。 ひさしぶりにお目にかかることができたご夫妻である。 鈴木良戈さんはお医者さまである。江東区の砂町で開業しておられ、うかがったところによると石田波郷を診察されたことがあったという。まだ20代後半で開業されたばかりの時のことだ。 「波郷ってどんなお方だったのですか?」思わず聞いてしまった。 「さらっとして無口でしたね。わたしは俳句を始めたばかりだったのですが、とても怖れ多くて俳句の話などはできませんでした。」とおっしゃる。あき子夫人が診察代の代わりといって短冊を持って来られたこともあったという。そのあき子夫人から聞いたエピソードだと言ってこんなお話をしてくださった。 あき子夫人が波郷を残してとまりがけの吟行に行くと告げたところ、「窓ひとつが俳句の世界だ」と波郷が言い放ったということだ。こう言われてはあき子夫人はギャフンとなっただろう。そう言われてもねえ……。しかし病身の波郷にとってはまさにそれが真実だったのだろう。 仙川の街を「いい街ですねえ、ずい分変わりましたねえ」とお二人とも驚きながら帰って行かれた。
by fragie777
| 2012-06-04 19:47
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