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5月29日(火)
今朝、二階の窓を開いてパソコンに向っていた。 会社の出納帳をつけていたのね。 苦手だけどわたしの日課。 ふっと、気づいた。 雲雀の声だ。 どこか遠い天からふりそそいでくるようだ。 ああ……って思った。 きっとあの神社の森で鳴いているのだ。 この家ではじめて聞いた雲雀の声……。 国際俳句交流協会主催の講演会と懇親会があって出かけたのはいいが、どうやら開催場所を間違えてしまったらしい。東京會舘であると思っていつものように行ってウロウロとしたところ、その気配がまったくない。受付の女性に聞いたところ、首をかしげて「そのような催し物はございませんが……」と言う。「あらあ、おかしいわねえ、ここなんだけど」とバッグの中からその案内を取り出そうとしたところ、わたしのバッグは迷宮へつながっているので、取り出すたびに違うものが出て来る。「あららら、どうしたのかしら」と何度もバッグに手ではなく顔をつっこんでみたのだが、それらしいものは見当たらない。これだって思うと、一昨日のお祝の会だったりしていったいどうなってのよ、と案内嬢に愛想笑いをうかべながらバッグをまさぐる。その間案内嬢はどっかかで検索をしてくれたらしく、「ああ、わかりました。東京会館でも浜松町にある東京会館でございます」ということ。「あらまっ、そうなのね、どうしましょう」とバッグに手を突っこんだまま尋ねると「一番早い行き方はここからタクシーで行かれるのがよろしいようです」ということなので、タクシーをつかまえて浜松町を目指したのだった。ただでさえ遅刻気味だったので、芳賀徹氏による講演はすでに半ばを越えていたが、お話は資料が豊かでおもしろかった。タイトルは「『もののあはれ』の系譜」。比較文学の立場にたって日本の詩歌の素晴らしさを解き明かそうというもの。あくまでも日本の芸術の美質についてである。副題は「小さきものに輝くいのち」である。「もののあはれは日本人の普遍的な感情である」とし、ヨーロッパにおける体系的哲学のようなものを日本人はあえてもたず、そういうものはすべて日本の詩歌のなかにある。という思い切った講義内容だった。ちょっと笑ってしまったのは、芳賀徹氏が「そばかす」という言葉を思い出せず、「あれってほらなんだっけ? ごましおじゃなくてほくろじゃなくて女の子の顔にできる茶色のほら……」と言ってとうとう思い出せず、会場のお客さまに教えてもらっていたことだ。そばかすはごましおではありません。芳賀先生。 それまでの間、お茶でも一服、啜ろうではないか。午後の日差しを浴びて竹林は照り映え、泉はよろこびに湧き立ち、茶釜からは松風の音が聞こえてくる。さあ、共に、はかないものを夢み、美しくも愚かしいことに思いをめぐらせよう。 岡倉天心の『茶の本』よりの引用だ。今日の資料の一節だ。 「さあ、共に、はかないものを夢み、美しくも愚かしいことに思いをめぐらせよう。」 こういうことばにわたしはグッとくる。 美しくも愚かしいことに思いをめぐらせよう。上等よ、いいじゃないですか……。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって現代俳句文庫70『藤本美和子句集』より。 かかへくるカヌーの丈とすれちがふ カヌーが季語として認知されているかは別として、ヨットやボートと同じく夏季、ことに緑したたる初夏がふさわしい。万緑を映した川面を滑るように進む姿には、なんともいえない清涼感がある。人間ひとりを収め、水上にすっきりと浮いているカヌーも、陸にあがれば意外に大きいものだ。カヤック専門店のオンラインストアで確認すると、軽くてコンパクトと書かれる一人乗りカヌーの全長が432センチとあり、たしかに思っていたよりずっと長い。水辺まで運ばれる色鮮やかなカヌーに気づいてから、長々と隣り合い、その全長をあらためて知る作者は、水上の軽やかな姿とは異なる、思いがけない一面を見てしまったような困惑もわずかに感じられる。水の生きものたちが、おしなべて重量を気にせず大きくなったものが多いことなどにも思いは及んでいくのだった。〈新しき色の加はる金魚玉〉〈たそがれをもて余しをる燕の子〉 「丈」と表現したことで「高さ」がよく見える。省略のきいた一句だと思う。 カヌーって432センチもあるんだ。すごいな。わたしの家にはサーフボードがいくつか狭い庭に放置されていてそこに夏草が生い茂りはじめている。 いったい誰が草を抜くのよ。 このわたしでないことだけは、わが家の猫たちも知ってのとおり明らかである。
by fragie777
| 2012-05-29 19:32
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