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5月18日(金)
この薔薇を贈るとしたら誰がふさわしいか……。 イギリスの女優ヘレン・ミレンがいいな。好きな女優だ。 俳人かつ詩人の加藤郁乎(かとういくや)が亡くなった。 最近おめにかかる機会がないと思っていた矢先のことである。 ふらんす堂からは、 加藤郁乎句集『初昔』、ふらんす堂文庫 加藤郁乎精選句集『粋座』を刊行させていただいている。残念ながら両方とも品切れ状態である。再版はいまのところ考えていない。 『粋座』の刊行をお願いしたときのことだ。編集部の希望としては『球体感覚』を中心に精選をしていただきたいとお願いしたところ、氏の胸中にはもはや『球体感覚』の句はなきに等しく、『球体感覚』からは二句のみの収録となった。 花に花ふれぬ二つの句を考へ 花蔭に花ひそとある入船や の二句である。「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」やかの有名な「冬の波冬の波止場に来て返す」がどうしても郁乎の句としてはまず頭に浮かんでしまう。 沙羅は双樹に肉の寺院を傾ける 『えくとぷらずま』 栗の花ててなしに来たのだ帰る 『形而情学』 牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 『牧歌メロン』 一秒のかなしみたたむ柿の花 『出イクヤ忌』 人間の水をぬくめて梅暦 『佳気颪』 このひととすることもなき秋の暮 『秋の暮』 句には句の位ありけり江戸桜 『江戸桜』 以上は 句集『粋座』収録より。 句集『初昔』は1998年4月刊行の1000句以上を収録する第十一句集。限定八百冊での刊行となった。署名をいただき全部が署名本だったと思う。 若くして世を去った父親の跡を継いで俳人になろうなどとは、考えてもいなかった。それでも俳書を含む江戸風流が好きで、机辺には其角、南畝、京伝、あるいは荷風の書があった。しかし、詩作を始め、西欧文学に傾き神道書に親しむなど、まわり道に手間取りながらの俳句精進であった。ために、風狂では奥手に属すると言ってよい。野暮は言いたくないが、明和のころより深川の岡場所に流行した粋、意気の心を忘れて俳句全盛の時代でもあるまい。 これは 句集『粋座』の「あとがき」の一部である。 句集『初昔』を読みかえしてみるとこの「心意気」が当時の俳壇や俳人・詩人へのシニカルな批評精神となって一句をなしていることがよくわかる。なかなか毒舌なのだがどこかとぼけた味がいい。圧倒的な古典の素養がありそのれをふまえた言葉遊びが多いのも加藤郁乎の特質だ。紹介するのは批評精神が躍動するものを中心にいくつか紹介したい。 米こぼす日本および日本人 世わたりを問はず語らず根深汁 このひとに膝小僧ある湯ざめかな 俳人も小粒になりぬわらび餅 定型にすぎぬ凡句やにぎり飯 俳壇をよそから見やれ秋の風 どこまでを定型といふ秋の風 虚名より無名ゆたかに梅の花 うつすらと汗ばむもまた作法かな 俳諧に片尻かけて月を見よ かげ口は男子に多し秋の暮 月並を大骨頂の朧かな 春泥にこける客観写生風 月並に云へば芭蕉のしぐれかな 俳諧は良くも悪くもぼらのへそ 俳人に出来不出来あり心太 新しみ歳時記に見ず夜蛤 さかしらを詩的と云へり浮寝鳥 春の泥俳人よりはたいこもち 詩に痩せる詩人さらなり糸柳 時代より一歩先んじ蚊帳の外 名ばかりの俳人の世を子規忌かな どうであれ生涯一句初昔 様子ぶる詩人は知らずさんま焼く 句碑よりは紙の碑のこる芒かな サングラスアルファロメオをぶつとばす こころ太たはけ尽さぬたはけもの なかなか辛辣な顔が見える。わたしは加藤郁乎氏にお目にかかる機会がかなりあったが、氏がどなたかと激論を交わすという風景をみたことがない。いつもおっとりとした物言いで、泰然自若の感があった。氏の批判精神は俳諧という遊びのなかにこうして織り込まれていったのだ。 反骨は群れをつくらず浮かれ猫 わたしはこの句が好きだ。「浮かれ猫」がいい。肩肘はらんとするこころの硬さをふっと笑い飛ばす、それが「粋」であるというものだ。大人(たいじん)の風流がある。 一景にわが師と酌めり桃の花 「三月朔吉田一穂先生の忌日なり」という前書きがある。郁乎はいまや父・加藤紫舟やその師・吉田一穂とともに盃をかわしうまい酒を飲んでいることだろう。 こころよりの哀悼を申し上げたい。
by fragie777
| 2012-05-18 20:06
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