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2月15日(水)
花びらが象牙のようにつめたく堅くそして透きとおっている。 こんな色のもあったのか…… 花の中心には虫のようなものが。 あるいは小人か……。 ふらんす堂には合歓の木がある。 それほど大きくないのだが、引っ越してきたときに緑が欲しいということで「島忠」から買ったものである。 なかなか繊細な木で気むずかしい。 スタッフたちが丹念に世話をしているのだが、 「少し枯れはじめてしまいました」 と悲しそうな報告がある。 いろいろと枯れの原因をスタッフがインターネットで調べた結果、どうやら合歓は外気に当てる必要があるらしい。 冬の間は窓を閉めっぱなしにするので、外気不足かもしれない。 「明日の朝、お掃除のときに窓をすこし開けておこうよ」 って、スタッフたちが打ち合わせをしている。 そう言えばわたしがときどき行く谷保の見事な合歓の木は大空に葉をそよがせてそれは気持が良さそうだった。 そう思うと可哀想なことをしたものである。 明日は思いっきり外の空気を吸ってくれたまえ、合歓よ。 新刊句集を紹介したい。 筧 隆代句集『寒卵』。 著者の筧隆代(かけいたかよ)さんは、俳誌「狩」(鷹羽狩行主宰)に所属、この度の第1句集に鷹羽狩行主宰が序句・帯文・鑑賞3句を、太田寛郎氏が跋文を寄せている。 寒卵うすくれなゐの影の上 狩行 鷹羽主宰の序句であるが、繊細で美しい句である。 寒卵母に学びしことを子へ 句集名となった俳句であるが、生きることの中心に家族があることの著者ならではの一句だ。 俳句で学んだ事が、三人の子育てにどれほど役立った事だろうか。厳しい寒さに耐えている草木に、自分を置き換えて見たとき、自分にも厳しく、子どもたちにも自信を持って厳しくすることができた。また、道端に咲く名もない花の可憐さに気付き、ものの見方、人との関わり方、そして子供達への気持ちも変わったと思う。(略)俳句を始めて、今まで見過ごして来たものの多さに気付き、何と勿体ない事をと思う。自然の美しさと強さ、優しさと寛大さに心打たれ、俳句への道は深まるばかりである。俳句で得た知恵を子育てに、そしてその子供達は沢山の句材を返してくれる。そんな時代もいつの間にか遠くなり、今では四人の孫にもみくちゃにされながらの日々である。 この文章は、著者の「俳句に助けられて」と題する一文からの抜粋である。跋文を寄せた太田寛郎さんが跋文のなかで紹介しているものだ。著者が俳句というものをご自身においてどう位置付けているか、この一文を通してはっきりと分かる。したがって家族を詠んだ句が多くなるのは必然だ。 二世帯のひとつ食卓花みかん 団欒の雰囲気が、一つの食卓と、清々しい花みかんの香りに集約された。俳句で綴る自分史だが、同時代を過ごしてきた人々の共感を呼ぶ優れた句が多い。 鷹羽主宰の帯文だ。 拾ひけり父の温みの桐一葉 春潮のぶつかる父のごとき岩 叱る母うつむく子どもねこじやらし ふらここや子ら鳥となり風となり 行間の涼しさ母のこと綴り 嫁がせてよりの端居の長さかな 白障子家族時には疎ましく 春風をつかみて歩きはじめの子 抱き起こす紫苑に母の匂ひかな 桜湯の涙の味かとも思ふ この句集の担当はスタッフの愛さん。装丁への著者のご希望は、「『寒卵』というタイトルであっても、あたたかい雰囲気のあるものがいい」ということ。「あたたかさ」にこだわる著者のお気持ちはこの句集のコンセプトを思えばよく分かる。 装丁の君嶋真理子さんはそれをうまく表現したのではないか。 根づきたるそよぎとなりし余り苗 青空といふ舞台へと揚雲雀 沼といふ水甕を抱き大花野 山の日の的となりたる烏瓜 凍滝にはじき返され日のひかり 静かなるもの強きもの冬木の芽 日を欲りて日に萎えやすき牡丹かな 物の真理には必ず正と反、明と暗がある。著者はその反や暗を直截には扱わず、あえて正と明の側から光を当てて、その物の本質を摑み取ろうとする。そこに筧隆代俳句の個性と本領があるといえるだろう。(略)筧さんの俳句を読んでいると胸が静まってくるのはそのためであるのに違いない。 と太田寛郎さんは跋文に書くが、著者筧隆代さんの良き理解者だ。「正と明」は、「反と暗」への十分な理解が基盤となっている。 句集をつくろうと決めたことを著者は「あとがき」にこう書く。 刊行を決意したのは、人生の大半を、八人の子育てに費やしてくれた両親への労いになればと思ったからです。取分け、子どもの世話をしながらの家事、さらには、野仕事にと身を削るように働いた母への思いは深く、「寒卵母に学びしことを子へ」の作品に因み、句集名を「寒卵」としました。 父や母、そして家族、それが筧隆代の原点だ。そこから出発しそこへ戻っていく。 雪降るやあとはとろ火で煮込むだけ 担当の愛さんが好きだという一句。 「とろ火で何を煮込んでいるんでしょうか。お料理の句が多いんです」と愛さん。 雪が降りづつく中、家族のために一心に鍋をあたためている著者の姿が彷彿としてくる。 女性誌「フィガロジャパン」3月号で、東直子歌集『十階』が紹介されていることを東さんよりのメールで知る。 今日本屋さんに行ったのだが、眼鏡を忘れてしまって「フィガロ」を見つけられなかった。 目をほそ~くして、焦点をしぼるとどうにか読めるほどの大きさの文字が並んでいたので頑張ってみたのだが、ダメ、ここには置いてない、ということにした。 あーあ、不便なもんよね、 眼球をいたわってあげてね、みんな。 健全なる精神は健全なる眼球に宿る、 っていうもんよ。 誰がなにを言ったとしても春風のざっくばらんな私を生きる いいなあ…… グッとくる。 紹介されていた東直子さんの短歌である。、 虚子の有名句、 春風や闘志いだきて丘に立つ に匹敵するくらい、ガッツがある。 「ざっくばらんな私」にえらく共感。
by fragie777
| 2012-02-15 19:18
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