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1月30日(月)
美しいフォルムだ。色もいいなあ……。 フェラーリとランボルギーニにはまだ一度も乗ったことがない。 寒い日がつづいている。 そして、今日のおやつは「うぐいす餅」だった。 春をまちのぞみながら、わたしたちは「おいしいねっ」って言って、「うぐいす餅」を頬張った。 新刊句集を紹介したい。 林いづみ句集『幻月(げんげつ)』。 第一句集である。 俳誌「風土」(神蔵器主宰)に所属し、神蔵主宰が序文を寄せ、大仏師・松本明慶氏が帯文を寄せている。大仏師とは、仏像などを制作する人(仏師)の敬称であるということだ。 林いづみさんの豊かな感受性が日本の森羅万象と文化を見事に織り込んだ句の世界である。 この句集『幻月』が内包する世界は深い。それはまたとりもなおさず、著者林いづみさんの精神世界の広やかさである。 「幻月」とは、広辞苑によると「月の両側に現れる光輝の強い点。空中の氷晶による光の屈折でおこる暈の一種。」とある。ちょっと分かりにくいのだが、スタッフの愛さんがインターネットで「幻月」を見つけてくれた。月のちかく少し離れてもうひとつ月のようなものが見える。気象光学的におこる現象らしい。寒い地方でしかみられないということだ。 気象光学に「幻月」と言われる不思議な現象があり、きわめて稀にしか見られないとか。俳句もまた、その幻を追い求める営みかも知れません。 「あとがき」の言葉であるが、「幻月」とした著者の俳句への思いがわかる。 あたたかや若草色の封書解き 花の寺竹筆二本選びけり 向き合うてカナリヤ色の枇杷を剝く ゲーテ座に住まふ蓑虫ありにけり 仏みて仏にみらる薄氷 つばくろやドブ板通りのワッペン屋 日常生活にもどこかゆったりした時間が流れている。林さんは生きることの「余白」を大切にする人だ。だから人との出会いひとつひとつがかけがえのないものとなる。そのお一人に亡き俳人の飯田龍太がいる。龍太さんの境川にある山廬をなんども訪ねたという。 行き逢ひぬかげろふ坂のなかばにて (飯田龍太先生) 落椿揃へ置きたる山廬かな 『龍太全集』第一巻や春の雷 まばたきの戻るや狐川温む 雪割草涙のあとの泪かな 二月逝く訃報ひとつを置き去りに 身に入むや巨きかひなの中に入る (飯田龍太展) 装丁はフランス装。書道家でもある林さんご自身の揮筆の「月」という字を配した。全体は青と白の二色のトーンで、句集名の「幻月」のみが金箔である。タイトルの文字の小ささがかえって余白を呼び起こす。帯に透明な用紙を用い、月という文字が欠けないように按配した。そのことによって、月がはるかなものとなった。この句集の世界を表現し得たのではないか。 神蔵器主宰の序文がまたこの著者の奥行きを語って興味深い。 ある日、私はいづみさんに「書道と俳句と両立する道はなかったのか」と尋ねた。いづみさんは「一日百枚書く人が、十日百枚書けば千枚、三十日書けば三千枚書ける。もし一年間一日百枚書きつづければ、一年で実に三万六千五百枚となる。書いても書いても思うように書けなくても、多く書いて努力していればいつか無我の心境というより、気を失ってしまったような時がある。しかも、筆だけは確かに動いていた。そんな時には自分で思っていなかったいい線が引け、佳い字が書ける。これは書道で学んだことだが、俳句もそうしたものではなかろうか」と。 白檀の仏三寸涼新た 朧夜のヘアピン鉄の匂ひして 思ふことまとまらなくて草を引く 石ころの一つひとつに初御空 春暁の鍵にて鍵の穴ふさぐ 孑孑の神田生れでありしかな 石投げて仏にあたる暮の秋 くちびるにそよぎありけりさくらんぼ みすずかる信濃にかなかな時雨かな 平凡の中の非凡や龍の玉 寒明くる背骨腰骨鳴らしつつ 沈丁花墓石に触れてしまひけり 芍薬の風脱ぐやうにひらきけり トマト喰ぶ月の山より下り来て 蛇笏忌の靴を濡らしてをりにけり 着ぶくれて人いつしんに銭洗ふ 黒手套にぎり面会室にかな 俳句に出会い、多くの方々との出逢いを得てその御縁で沢山の愛に育まれ、心豊かな日々を送ることが出来ました。改めて、すべての方に感謝申し上げます。 ふたたび「あとがき」の言葉を引用した。 手繰り寄す一会が百へ天の川 著者林いづみさんの思いを凝縮した一句であると思う。 きょうのおやつの「うぐいす餅」のことだが、「うぐいす餅」と言えば、かの有名な句、 街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生 をきっと思い出す。 そして、「うぐいす餅」を食べながら、「出ましたね、風生先生」って心の中でつぶやいている自分に気づく。 わたしたちの日常のなかに沁みとおっている詩のことばだ。
by fragie777
| 2012-01-30 19:44
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