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10月1日(土)
木犀の季節となった。 今日はじめてその香りを嗅ぎ、花も見た。 その写真を掲載したかったのだけど、見事ボケていた。 まったくもってちぐはぐな一日となった。 約束の時間は3時のはずだった。 余裕をもって小田急線に乗り込んだのであるが、シェイクスピア悲劇の本に夢中になっていて降りる駅より遥かに先へ行ってしまったのだ。 実は前回来たときも、本に夢中になっていて乗り越した駅だ。(この時は俳句の評論集よ!) あわてて電車に飛び乗って戻った。 これじゃどうにも間に合わないと、すぐに約束している先へ電話をいれた。 ところが…… である。 驚いたことに約束は明日であるということだ。 ガーン…… 駅の階段の途中でわたしは茫然自失した。 ここにくるまでのわたしの費やしたエネルギーを返してくれー…… と叫びたいほどだった。 でも、 わかってんのよ。 すべてわたしが悪いっていうこと。 現実に対して上の空が多すぎるのだ。 ハムレットとレアティーズとの生き死にをかけた決闘シーンのほうがわたしにとって何よりも大事だったというわけだ。 成城で下りて美味い和菓子屋さんでとびきりのあんみつを食べた。 どうやらあんみつを食べたあと、眠ってしまったらしい。 夢を見た。 目がさめたとき、一瞬自分がどこにいるのか判らなかった。 ほんとうはわたし、ずっと夢を見つづけていたかったのだ。 こうやってわたしの素晴らしい10月が始まったのだ。 新刊句集を紹介したい。 しなだしん句集『隼の胸』。 前句集『夜明』に次ぐ第二句集となる。精鋭俳句叢書”serie de la lune”の一冊として刊行された。栞を石田郷子さんが寄せている。 さくらからさくらへ鳥のうらがへる 蝉の夜をさかなのやうにすれちがふ かぜは秋フランス積みに赤煉瓦 紙漉の女のかほも流れけり 本文のはじめのほうにある作品だが、やわらかなひらがな表記が効果的で、読み手の心の襞にまで沁み込んで来るような優しい余韻がある。この繊細さは句集に一貫してあり、著者は「どうよっ!」って大見得を切ることはないし、大声でなにかを叫ぶこともない。 栞の石田郷子さんのタイトルは「作者の真実」だ。 いくつか引用してみたい。 あをぞらの終りに藤の濡れてゐる 青空の終りってどこなんだろう。しかし、これが作者の、たぶん雨上がりの清々しい空の実感であり、心の弾みであり、真実なのである。 うぐひすや名もなく川のはじまれる 名もなく川がはじまる、これもそうだ。大河は、数限りない沢の水が流れ込んだ結果だ。その一つ一つの沢の名があろうとなかろうと、名もない川というのが、作者の真実である。 この句集には、著者がお母さまを亡くされたときのことが詠まれている。その句も決して声高でなく静かだ。 数へ日の母の瞳を聴いてをり 脱けがらとなる寸前の雪ひとひら 掛毛布死者の合掌もりあがり 火葬場は生者に寒し母を焼く この雪は母かもしれず手に受くる はつゆめのつづきも母を呼んでゐし 三食を父とともにし三が日 母のもの捨てて霰に降られけり そう、母の瞳を「聴く」のが作者の真実。作者は、お母様を亡くされた。その折りの作品もまた、「もの」で詠んでいる。凄まじいほどの哀しみ。 俳句で語るのではない。俳句が語るのだ。 かくあるべきだと、私は思う。 「俳句で語る」のではなく「俳句が語る」と石田郷子さんは書く。 母をうしなうことの悲しみもまたかくまで「静謐」である。 有の実をからだの水に移しけり 鳥帰るひとさし指の母に似て 雪しまき函開けてまた函がある 朴の木に鳥咲いてゐる寒さかな 木耳のところへもどり雨に遇ふ 夜を来る馬の輪郭星涼し ゆふぐれのこゑは稲穂を越えてきし うみなりへ指をかへして踊果つ 雪しろやおなじ名前の山と川 盆栽になつて百年風薫る 青空のあふるる冷し胡瓜かな ぬれてゐるやうな雛を納めけり 罪人のやうに泉を覗きけり 流星のあと人間に脚二本 荒星や音にも影のあるごとし 「もの」を通しての表現ではあるがどこか作品はどれも「さびしさの詩情」をまとっているようにも思える。 人生は季節だと思う。 私の俳句は今まで、好きな夏の句がもっとも多く、秋が極端に少なかった。秋になっても夏が抜けず、秋を見つけて詠み込むことができなかったからだ。だが近年、秋をいち早く詠めるようになり、この句集にも比較的多くの秋の作品を収録することができた。それは私自身が人生の秋を意識し、それを悪くない、と思っているからかもしれない。 「あとがき」の著者のことばだ。 「秋」という季節にしみじみと身を添わせるこころはまたこの世の無常をいやおうなく感じとる。 この句集が読了後もしずかな余韻を湛えているのは、きっとその著者の思いが沈潜しているからだろう。 しろがねの隼の胸まだ翔ばず 句集名となった作品だ。 これから翔ぼうとしている隼の胸中にもきっと一抹のさびしさが宿っているのだろう。 わたしの好きな句というか、ええって思った句は、最後におかれた句。 まつさらの目玉を掬ふ泉かな 一読して、ええっ、どういうことよって思うのだが、これもまた「作者の真実」なのであろう。しかし、この感覚はよく分かる。 でもちょっとシュールな絵画を思わせるようで、というか絵にかいてみたいような俳句である。 こわい絵になるかもしれないな……。 今日のねんてんの今日の一句は、 竹岡一郎句集『蜂の巣マシンガン』より。 この句、「休暇明」が季語。夏休みが終わった学校が始まることをさす。この句の十ほどの蛇口は学校だろうか。「サンバに乳ゆれて難波や文化の日」もこの人の句。文化の日の傑作だろう。 竹岡一郎句集『蜂の巣マシンガン』は、なかなかそのタイトルからして衝撃的な句集のようだ。 ある人から聞いたことだ。 もらった句集を全然読めずに積んだままにしておいたのだけど、この 竹岡一郎句集『蜂の巣マシンガン』を貰ったときはすぐに読んだのだそうである。 「あら、まあ、どうして?」と聞くと、 「タイトルの面白さと装丁がインパクトがあったから……、で、一気に読んで面白かった」 ということだ。 でも、オチがある。 タイトルの「蜂の巣マシンガン」をなんと、並木製本さんとおんなじで「蜂の巣マガジン」とばっかり思っていたとのこと。 「マガジンじゃなかったんだ!」 と言われ、 わたしは一瞬絶句した……。
by fragie777
| 2011-10-01 20:14
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Comments(2)
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