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6月28日(火)
えごの花や山法師の花、卯の花などの初夏の白い花が終わるころに咲きはじめる。 総合誌「俳句」7月号で四ッ谷龍句集『大いなる項目』について荻野雅彦さんが書評を書いている。タイトルは「大いなる友情の書」。 四ツ谷龍にとって「俳句」は既に存在するものではなく、その都度意志的に存在させるものだ。そして、句集『大いなる項目』に特徴的な連作も俳句の既存性を前提にしていないから、まず引いた画面を、次の句はクローズアップで、続いて別の一面を、といった句の総体がテーマの全体像を提示する一般性とは無縁で、四ツ谷の俳句を読むことは、一句毎に全力でテーマを体現させる彼の意志に圧倒されることだ。 と書き出す荻野雅彦さんは、この句集のありようを四ツ谷龍のいまはなき畏友・田中裕明との関係において読み解く。田中裕明の俳句における句頭韻の技法をみずからの句作にも取り入れたこと、あるいは四ツ谷龍の作品の背景の先にある田中裕明の眼差しなどに触れ、 これらの句が、書かれた現在とは別に田中との記憶を召喚するのは、本書を句集であることと同時に、田中への批評や随想でもあるような本として四ツ谷が企てたからではなかろうか。 これは面白い見方である。正直わたしは句集『大いなる項目』を当初そんな風には考えなかったが、こう書かれてみるとあるいはと、俄然こころが活気を帯びてくる。 句集におさめられた四ツ谷さんの子ども時代の絵、あるいは自装ともいうべきその装丁の佇まい、それらがすでに田中裕明の全集の装丁とも響き合う。そして装丁のおいて四ツ谷さんがこだわった「むらさき」。それは、 〈蝉とぶを見てむらさきを思ふべし〉〈なんとなく街がむらさき春を待つ〉など、田中にとって現実と非現実の境界にある重要な色、紫への認識が反映しているだろう。 そうか、そういう意味での「むらさき」なのか。 ふらんす堂に自ら来社くださり、紫を念入りに選んでいた四ツ谷さんの姿を思いだす。 荻野雅彦さんは書く。ボードレールの「『悪の華』のように、句集『慈愛』加除・増補を重ねる四ツ谷が『慈愛 第三版』に吸収されるだろう本書を独立させた意味に思いあたる。」と。 それは、 句集『大いなる項目』を、田中との大いなる友情の書として、一度は存在させたかったからに違いない。 これは今まで誰も書かなかったことであり、わたしには新しい発見でありそして大いに納得したいところとなったのである。 詩人四ツ谷龍の深い思いにみちた一書なのである。 「現代詩手帖」7月号では、田中亜美さんが彌榮浩樹句集『鶏』の作品に触れながら、先ごろ第54回群像評論新人賞を受賞した彌榮さんの評論について紹介している。評論のタイトルは「1%の俳句ー一挙性・露悪性・写生」。 まず桑原武夫の「第二芸術論」を紹介し、 しかし、彌榮の論では第二芸術論を下敷きに、その図式を鮮やかに反転させている。桑原のように、100%の総体を一挙的に断じるのではなく、あくまで「区別」に拘る。「1%」を「1%」ならしめる俳句の核心に、様々な方向から迫るのだ。 「1%の俳句」について、彌榮はわずか十七音に「季語」「切れ字」「写生」「五七五の3D構造」などの特質は一挙に実現されるものとする。そして、俳句表現として「露呈」された日本語の極限値、濃厚に煮詰めた日本語そのものとして「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」(飯田蛇笏)などの近代の名句を挙げる。さらに、現実世界との魅力的で有意義なヴァージョンとしての、俳句の「写生」の可能性についても言及している。(略)揺らぎ、疾駆する文章の呼吸は、彌榮浩樹という俳人のロードマップを示唆しているようでもあり、冒頭に掲げた彼の句集とともに再読すると、いっそう説得力を感じさせた。 田中亜美さんは彌榮浩樹句集『鶏』より、二句を紹介している。 鶯の声なり左曲がりなり 秋口の犬ぼうぼうと洗ふなり (ぼう=は漢字、表記できません) その同じく「現代詩手帖」の「詩書月評」で松下育男さんが、手塚敦史詩集『トンボ消息』をとりあげている。 詩を書き、詩を読むことのもともとの喜びを感じることができる。途切れもなく続く詩行は、詩に行を替えることによって、あるいは散文のように流れることによって、臨機応変に姿を変えてゆく。さまざまな描写が現れては消えてゆく詩行に身をゆだねて、読者は没頭できる部分を逃さずに運び取ってゆけばよいのだろう。ただ、時折気になったのが、まだこなれていない言葉やイメージが、よそ行きのように挿まれていること、あるいはそれも、意図的になされた詩的技巧のひとつなのだろうか。 水のぬれかたを記す、紙の縁、余白すら、伝えようとするのをやめず、手紙にはどうしても できなかった。きみに伝えたい用件や思いを保留した後、おもだかがそよぎ、個にとらわれ、 それから高まりだす意味も、Bペンをそれた余情とともにこの身にあてがわれてゆく。 (「トンボ消息より) 複雑に組み立てられたレトリックの興をじっと見つめてみれば、現れてくるのはひどく素直な異性への恋愛感情であり、思いをそのまま表すことのできない詩人の、表現の病いにとらわれたもどかしさを、ほほえましく読み取ることができる。 この手塚敦史詩集『トンボ消息』については、詩人野村喜和夫さんが「公明新聞」で卓抜な評をされているがこの紹介は明日にしたい。 お客さまの多い一日となった。 午前中には、俳人の伊東肇さんのご紹介で渡辺健さんが、伊東氏とふたりで見えられた。 はじめての句集の刊行の相談にいらしたのだ。 フランス装に興味を持たれていていろいろとご質問をされ、結局「仮フランス装」と呼ぶ、ソフトカバーグラシン巻きの本に決められたのだった。 最近この造本は人気がある。 グラシンという薄紙でカバーを巻くのだが、このグラシンが曲者である。 ひどく気難しく扱いが大変で、そうそう心を許さない。 ふらんす堂にはどうやら心を許してくれているのだ。目下のところは。 伊東氏は、俳誌「若葉」の編集長さんである。 ふらんす堂からかつて伊東肇第一句句集『青葡萄』を刊行されている。 渡辺健さんは、以前ふらんす堂より句集『日永』を刊行された江川和彦さんとはご友人であり同じ大学の同級生であったということである。今日はその集『日永』を持参された。 午後にもお客さまが見えられた。 河野絢子(けんこ)さん。俳誌「未来図」に所属するお方である。 横浜の青葉台という遠いところからはじめて仙川においでになるということ。なんと多摩センターまで乗り過されてしまったと、途中でお電話をいただく。 「一時間も予定より早く家を出まして、わたしとしたら何ということでしょう」 とおいでになるなり、おっとりとおっしゃる。 優雅な物腰のマダムでいらっしゃった。 担当の愛さんに造本についてあれこれと相談され、 「家に帰って主人と相談して決めますわ」 ということ。 「ああ、それがきっとよろしいですね!」 とわたしたち。 写真を撮らせていただくとき、恥ずかしそうになさったそのしぐさもどこか優美でいらした。 素敵でしょう。わたしたちはそれぞれ好きな柄を選んだのだった。
by fragie777
| 2011-06-28 19:53
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