カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
5月27日(金)
引っ越し前の最後の悪あがきではないが、他のスタッフたちが準備をしているのをかたわらにいますすめている仕事のゲラを何本かそれぞれ送らなくてはならないところに送れた。 このまま引っ越しに突入してしまうとゲラの紛失などが起きたりするのではないかと不安だった。 ともかくも必死で今日は仕事と取り組んだのだが、どうしても校了にできずに机の上に残ってしまったのが、岡井隆歌集のゲラである。昨年ふらんす堂のホームページで「短歌日記」の連載をしていただいたものを六月刊行を予定ですすめてきたのだ。 進行の途中で東北大震災があり、「あとがき」をいただけぬままお待ちし、(かなり動揺され「あとがき」が書けなかったと「あとがき」にある)ようやく頂いたので予定の六月刊行にどうやら間に合わせることができそうだ。 明日もう一度ゲラを読んで引っ越しの最中の校了ということになる。 スタッフたちはもうみんな帰ってしまってわたしのパソコンのキイの音だけが響いている。 あと数日でこの部屋から立ち去ることになるなんて、現実感がない。 名残を惜しむ暇もなくきっと怒涛のように引っ越して行くことになるんだろうなあ……。 新刊が出来上がってわたしの机の上に積まれているのだけど、引っ越し前までに全部はきっと紹介出来ないかもしれない。 で、 まず一冊から。 岩崎昇一詩集『藍染の家』。 岩崎昇一さんという詩人についてはあまりにも情報量がない。 地震の数日後だっただろうか、ふらんす堂にご来社下さった。 詩集はすでに何冊か刊行されているらしいが、それも何冊であるかは定かではない。 本屋さんでみてふらんす堂の本の作りに魅かれてご来社下さったということだ。 この度の詩集『藍染の家』については、集名の「藍染めの家」という文字を臙脂色にされたいということ、これまでの詩集のタイトルもすべて臙脂色にされてきたということでそれを希望された。臙脂と藍染めの藍がこの詩集の基本カラーとなった。装丁は和兎さん。扉に使用したラフィーネという用紙がひときわゴージャスである。 さて、この詩集であるが、目次をひとわたり読んだだけでも死の気配が濃厚である。たとえば「故人のように」「故人Ⅱ」「故人の声」と目次が始まり、途中「故人」「故人Ⅲ」「弔問」「盗まれた死」などというタイトルがとびとびにあり、「藍染の家」で終る。この「藍染の家」にしてもそこにはかすかに死者の声がする。目次にあまた出て来る「故人」がひとつの深淵である。さまざまな「故人」のようでいてひとりの「故人」のようでもあり、「故人」は多面体でもある。 「藍染の家」を紹介する。 藍染の家 昔、藍染の作業小屋だった 実家の古木を寝かせておいたが ほとりと落ちた羽蟻を怪しみ つつくと指で崩れた。腐食のすすむ 奥のくぼみには かぎりない卵を抱えた 女王がゆったりとねがえりをうつ。 薪にするには忍びなく 飛び立つ前に庭に埋めたが その夜、土中に続く街道から 白蟻の群れがおそってくる夢をみた。 穴というアナを塞いで肌を這い上がる 皮を剝いで 外気に晒した時、不快な身震いの 女王の視線に射られた気がした。 陰の貪婪ないとなみを あばかれた恨みか (わたしも霞ではないから 繁殖する) 償いも弁明も殻の竹籠のよう 先を競うものには 弁明も つぐないも実らない 生存の諍いは人を待つことを知らない。 何故の問いは 裏切りの刻印を許すことはないから 食道のような巣穴の道は土台を崩し 家屋をゆるやかな追憶にかえす。 人の悲哀などは何ほどかである 過ぎてしまえば地層の痕跡にすぎない。 だから、母屋の住みかえは断念する ここに留まることに決めた 留まって執行される日を待つ。 笑う者は郊外を目指した わらわれるものは庭を掘る。 土中の古材に藍の落書きをみつけ 藍の甕をとりかこむ祖母らのざわめきを 聞き分ける耳となる。 秋は朽木に終息する 発覚より先に腐食の巣はすすみ 庭に羽蟻を潰すときには 柱はもう取り返しがつかない。 今日の「増殖する歳時記」は、今井聖さんによって、『季語別片山由美子句集』より。 島を出し船にしばらく青嵐 俳句の伝統的な要件を踏まえた上でクールな時代的感性を生かした現代の写生である。 と今井さんは書き文章を締めているが、なにゆえ「現代の写生」であるかを今井さんの鑑賞にアクセスして実際にお読みいただきたい。 フーム、 そうなのか…… って、わたしは読みました。 今日届いた「鷹」6月号の「本の栞」のコーナーで藤山直樹さんが『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む。』を紹介している。思いもかけず見つけ、すごくちゃんと読んでくださっているのでほぼ全文を紹介させてもらいます。 「正真正銘の第一作から近年の『日常』に至る七〇年に及ぶ兜太の句業のなかから、池田澄子が百句選び、一句ずつ二人で語り合ってゆく。この本の面白さは何と言っても、この仕組みと池田の人選に負っていて、企画の手柄といえよう。まず選が面白い。兜太も「これは池田君でないと選んでもらえないかな。誰も選んでいる人はいない」と言う句が選ばれたりする。兜太の句は人口に膾炙している句が多いが、池田が真新しい自分の眼で自分の好きな、そして兜太らしいと自分が感じる句を選んだことが伝わってくる。兜太はこの時代を代表する大俳人と言っていいだろうが、池田はものともせずに言いたいことを言う。「震えが来るほど好き」「外そうかどうしようか迷っている」。もちろん採った句を語るわけだから、どちらかというとその句の面白さを語るのだが、それを兜太がこれまた面白がって聞く。「今までの私の句の鑑賞じゃあ出てこない」と喜び、池田も「兜太の専門家じゃない」からと応え、兜太は「率直、そう、それがいいんだ」とまた喜ぶ。媚びなくあくまでも句に正面から向き合おうとする読み手と、その読み手に正面から向き合う書き手。そのあいだで読者は楽しく刺戟されつつ、さまざまな発見を手に入れうる。兜太の句についての発見だけではなく、俳句を書くとはどういうことか、そしてそれを読むとはどういうことかについての発見である。 こんな風に紹介していただけるととても嬉しい。 「企画の手柄」というのは「偶然のいたずらによるもの」でもあるのだけれど……、このブログでもちょっと書いたのであるが、そのブログを書いたあとにさらにびっくりしたのは、わたしがなんも分かっておらず兜太さんと池田さんをまったく無視ししてトンチンカンにジャンジャン進めてしまったようなのである。「ええっ、そうだったんですかあ!」って池田さんに叫んでしまったほど。それを池田さんが黙ってみて(yamaokaさん、大丈夫かしら…)と思いながらも受け入れてくださったことがすごいのだ。実は……。 「静かな場所」№6を送っていただく。 いろいろと書かなくてはいけないこともあるような気がするんだけど、一言だけ。 「編集後記」で和田悠さんが「「田中裕明をめぐる言説の一つの発信地でこの雑誌はあるわけだが、その神話化に加担することだけは注意深く避けてゆきたい」と言うことばがあって立ち止まった。「なぜなら裕明自身がそこからもっとも遠い」ところいた人あるがゆえにとある。 こういうことって大事なことだと思う。 わたしはこの「静かな場所」に集まる人たちの田中裕明の作品(テキスト)に向き合う姿勢を見る限りにおいてそういうことはないのではないか、と強く思う。
by fragie777
| 2011-05-27 20:17
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||