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11月16日(火)
海桐花(とべら)の実。 具体的にはここに書けないのだが、いまわたしのまわりではいろんなことが起こっていてもちろんわたし自身もそれに巻き込まれているようでちょっとてんてこ舞いなのである。 不思議なことになにかひとついつもと違うことがおこるとそれに連鎖するようにいろんなことが起こるということがあり、そういう時は心も身体もリラックスさせて流れに身をまかせながら無理をせずどこかでそれ自体を楽しむ心をもちつつ対処することが最良だと思う。 本をつくるという仕事の日常がわたしをある意味で冷静にさせてくれるかもしれない。 この本の活字の大きさをどうしようか、あるいはノンブルをどういう書体でいくか、著者の顔を思い浮かべながらそんなことに向き合う時間が楽しいし、仕事のなかでも大切なことだ。 ひっそりとした時間……。 そういう仕事の現場に常にいつづけたい……、いつもそう思っている。 と、 そんなことを考えて、ひとり静かに悦に入っていたら、 「yamaokaさん、帯がまだ製本屋さんに入ってないそうです!」 とスタッフの声。 ああ、やばい、すっかり忘れてた!! 今日の新刊句集は、石本せつ子句集『平生(へいぜい)』。 句集名の「平生」とは、広辞苑によると「ふだん。いつも。ひごろ」と言う意味。ほかにも「生きている時」という意味があるようだ。いいことばだと思うし意味もよくわかるけど、あんまり日常会話では使わないような気がする。だからかえって新鮮なことばに思える。こういうことばを無理なく日常会話に織り込める人ってちょっと年輩のインテリの人にいるような気がする、ウン、きっとそう……。 石本せつ子さんは、俳誌「知音」に所属し、帯文を行方克巳さん、序文を西村和子さんが書いている。行方さんの帯文によれば、この句集には石本せつ子さんの「人生の一齣一齣が」「普段の生活が」「明るいタッチで描かれている」とあり、 平生の中にこそ詩がある。 と結んでいる。この「平生の中にこそ詩がある」この言葉に句集のすべてがある。 水を見て樹を見て空のあたたかし 片蔭をたどりつつ思ひ出し笑ひ 実柘榴のかんらかんらと笑ひをり 秋澄むや心が毀れさうなとき ひと雨の過ぎて虫の音入れ替り 万太郎鬼灯市の人波に 西村和子さんが懇切な序文を寄せておられる。その一部を紹介すると、 明易の吾を抜け出しもうひとり 不思議な句だ。明易き頃の薄明かりの中で、床の上に寝ている「吾」を抜け出し、「もうひとり」が浮遊してゆく。あたかもドッペルゲンガー現象を、そのまま詠んだような作品だ。自分自身の姿を、もう一人の自分が見ているという幻覚現象は、泉鏡花の小説などにもある。「源氏物語」の六条御息所も、和泉式部も、そうした幻覚を見たことだろう。 明易の仄明かり、夢うつつの心理状態、そんな時見えてくるもう一人の自分とは、魂の姿かも知れない。詩人の魂であることは疑いもない。 バス停の周りの枯野飽きあきす ひらひらと寄り来て金魚何か言ふ 真清水を祈るがごとく汲みゆけり ひと雨の過ぎて虫の音入れ替り 滞るものそのままに冬の水 著者の石本さんにはご主人のとつぜんの病気という試練があった。その試練にも耐えられたのは「俳句」があったからだと「あとがき」に書く。 夫の病状が安定してくると、私はしゃっきりとして吟行に出かけた。時には、俳句モードに切替らない日もあったが、句友と言葉を交すだけでも、心が癒された。夫の病気という危機を乗り切り、いま二人で平穏な日々を過せるのは、俳句が支えてくれたからと、しみじみ思う。これからは、ひとつひとつの出会いを大切に、一層俳句に精進してゆきたい。 春の雲乗れば運んでくれさうな 試練に向き合う石本さんにとって「俳句」はまるでこの「春の雲」のようだったのにちがいない。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、名取里美句集『家族』より。 初冬や触るる焼もの手織もの 布の凹凸、土のざらつき、どれも手から伝わる感触が呼び起こすなつかしさがある。わたしたちはそれぞれの秘めたる声に耳を傾けるように手触りを楽しむ。 「初冬」といふ「ほんの少し寒さが募る冬の始まり」に「人間はもっとも敏感な指先になつかしさを求めるのかもしれない」と土肥あき子さん。
by fragie777
| 2010-11-16 19:45
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Comments(2)
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