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10月12日(火)
のどかな海を見てすっかりのんびりとした日を過ごしたのだった。 10月だというのにまだ海水浴をしている人たち。 今日のお昼にカレーうどんを食べたら、またやってしまった。 白のTシャツを汚してしまったのだ。ジャケットを着ているとどうにか隠せる。しかし、今日の蒸し暑さにジャケットを着て仕事をするのは願い下げである。結局一枚1000円の白の長袖Tシャツを買うはめになった。 まっ、白のTシャツは何枚あってもわたしの場合は寝巻がわりにもするのでかまわないのだが……。長袖の白Tシャツはいつでも求められている、しかし、このTシャツほど願いにかなうような素晴らしいヤツを見つけるのは難しいのである。今日のものも襟ぐりのところはまあ良いとしよう、だが生地がいけない、すこし薄手で秋に着るものとしてこころもとない、丈も眺めなのがどうもダサイ。カレーの染みのついたものよりはマシであるということでの妥協のものだ。嫌だったらカレーうどんの食べ方をマスターをすればいいことだ。わたしの場合、カレーうどんへの道と白Tシャツへの道はおなじくらい険しいということである。 さて、今日の新刊句集は、清水貴久彦句集『髫髪松』(うないまつ)である。『髫髪松』というこのおそろしげな漢字を書く松とは何ぞ。だいたい「うないまつ」と誰が読めるだろうか……。ふらんす堂のスタッフは誰も読めなかった。俳人の方たちだっておいそれと読める人はそうね、1000人に一人くらいかしらといま担当した愛さんに尋ねたら、「どうでしょう?」と言いながら愛さんがさっそく広辞苑を引いたところ、広辞苑によると「うない」は「もともとは子どもの髪型」であり「髫髪松」とは、「墓のしるしに植えた松」のことでそれが「うない」に似ていることから来たらしい。源氏物語には出てくるというから、古典の教養のある方々はきっと読めるかもしれないことばである。句集名を「髫髪松」と付けたことを著者の清水さんは「あとがき」にこう書く。 第二句集『髫髪松』とする。題名は「片白に花火降りけり髫髪松」(平成二十年の作品)からとった。ちなみに、髫髪松(うなゐまつ)とは、墓のしるしに植えた松のことである。 雪だるま丹田呼吸したまへり ケーキ屋が春風を入れ午前九時 螢火に囲まれてをり不整脈 胎盤を通るささやき星祭 朝市のらつきよバケツで売られけり 暖房にカルテ並べて置かれけり 押入れに子供を隠し昼寝かな 秋澄むや鯨の皮の沓の音 微熱の子皿の熟柿を持ち歩く 師の仇を討つ相談や大くさめ たんぽぽや車椅子より螺子一つ 冷まじやリンパ液つと皮の下 著者の清水貴久彦さんは、お医者さんでもある。この句集の略歴には書かれていないが大学で研究をされている医学博士である。だから作品には医師でなくては作れないような句がまじる。ここには挙げないが背中がひやりとするようなものもある。かつて『病窓歳時記』(まつお出版)を編集された経歴ももつ。「俳句にみる病気とその周辺」をテーマに病気にまつわる俳句が網羅されているというユニークな歳時記である。エッセイもよくし、『風はどこから 山田みづえ俳句鑑賞』をふらんす堂から刊行されている。 いまふと思ったのであるが、この「髫髪松」というタイトル、松はめでたさの象徴でもありその濃い緑は生命力にもつながる。そこへ持ってきて「墓」である。ここにも「生死」がひそんでいる。「生死」を見つづける医師の句集名としてはふさわしいものなのではないだろうか……。 正座して師の声遠し寒稽古 戦争の記事がおでんの皿の下 熊蜂や男らしさに翳りあり 引き下るわけにもゆかず昭和の日 そしてどこかこの句集には「昭和世代」(と言っていいのだろうか)の悲しみがひっそりとある。 10日の毎日新聞では、ふらんす堂刊行の三句集が紹介されていた。 まず、大峯あきら句集『群生海』。 さまざまの物の中なる日向水 集名は生きとし生けるものの意で、浄土仏教の聖典の中の言葉。季節のめぐりに心を寄せ、一瞬一瞬を慈しむようにすくいとる。 つぎは、斎藤夏風句集『辻俳諧』。 提灯を伸ばせは音や盆仕度 2001年以降8年間の作品を収める第6句集。辻とは人が行き来するところであり、その場に立って実を詠むという信念が貫かれている。 そして、大木あまり句集『星涼』。 春風と行けば近道あるごとし 2002年以降8年間の作品をまとめた第5句集。著者は鋭敏な感覚に支えられた独自の作風で定評がある。作意を捨てた作品から立ち上がってくるのは季語の豊かさである。 ねんてんの今日の一句でも、坪内稔典さんによってふらんす堂刊行の句集がつづけて紹介されていた。 9日は、後藤信雄句集『冬木町』より。 水音の小鳥のやうな秋の昼 小鳥のような水音は秋の澄んだ昼にふさわしい。豊かな時間がこの昼には満ちている気がする。作者は1963年生まれ。熊本に住み、俳句雑誌「未来図」に拠っている。日本がすつぽり入る秋の暮」もこの句集の秀句。とある。 10日は、大木あまり句集『星涼』より。 子と魚に糸切り歯あり天の川 子と魚が同格になっている。糸切り歯において。子も魚も天の川を泳ぐのであろうか。糸切り歯を光らせながら。1941年生まれのこの人の作品はずいぶん前から読んできた。いわば同時代の同志ともいうべきあまりだが、「骨だけの枯蓮が好き泥が好き」という反骨精神というか依怙地というか、こういうあまりが私は好き。と。 同感です、坪内さん! 11日は、八田木枯句集『鏡騒』(かがみざい) より。 尾花かるかや鳥居真里子の流眄か そよぐ尾花やかるかやは鳥居真里子の流し目みたい、というのだろう。鳥居真里子の流し目は尾花よりも生々しい気がするが、それは私の感じ。木枯にとってはさわさわと軽いのであろう。木枯は1925年生まれ。長谷川素逝、山口誓子に師事。俳句雑誌「晩紅」に拠っている。「秋風や老はふくらむこともなし」「よく澄める水のおもては痛からむ」も木枯の作。 11日の「増殖する歳時記」は、清水哲男さんによって櫻井ゆか句集『いつまでも』が紹介されている。 決められた席よりみたる芒かな 人の記憶というのは面白いもので、必ずしもよく見えたものや聞こえたものを鮮明に覚えているとは限らない。むしろ部分的にとか中途半端に見たり聞いたりしたものが鮮明に思い出されることがある。一見なんでもないような記憶の不思議なメカニズムを、この句はさりげなく提出している。なんでもないような句だけれど、なかなかに感性の鋭い作品だと受け取れた。 これで今日紹介しなくてはならないところは全部紹介しきれたかな、あっ、そうだ。神野紗希さんが、「週刊俳句」に「ユニットの時代?―大木あまり『星涼』を読む―と題して、大木あまり句集『星涼』について丁寧な書評を書いている。これは書評にとどまらず読み応えのある「大木あまり論」だ。 是非アクセスを。 たまった宿題をやりとげた子どものような心境であるが、きっとまだ忘れていることがあるような気がする。それはまた明日にまわして今日はもう帰ります。 汚してしまった白のTシャツを洗濯機に放りこまなければなりませぬ。 では、さようなら。
by fragie777
| 2010-10-12 19:55
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