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10月6日(水)
今朝咲いていた朝顔。 数日前のことであるが友人より、ハラぺーニョ(ハバネロ)というオレンジ色のメキシコ産唐辛子を貰った。その友人の家で育てたもので調理の仕方を書いたメモも添えてある。それによると、「世界最強の辛さ」 とある。「世界最強の辛さ」と言ったってわたしは「辛さ」の体験ということにそれほど人生のウエイトを置いているわけじゃない。だからいかほどの辛さか分からない。「調理の仕方」は、「すりおろすかみじん切りにして塩少々とオリーブオイルに漬け込んでパスタやカレーの香辛料として利用します」と書いてある。(フーン)とわたしは思い、みじん切りの方を選んだ。広口瓶を煮沸消毒し、その中に丹念にみじん切りしたハラぺーニョを抛り込み新しいオリーブオイルの封を切ってそれを流し込んだ。 十分満足したわたしはお気に入りのわたし占有のリクライニングチェアにふかぶかと座ってDVDに見入ったのだった。 しかし、その後事故が起こった。 包丁を持たなかった方の左手(つまりハラベーニョを抑えた方)の指先で左目をこすったところ火がついた。 いったい何のことか分からなかった。 目が燃えるように熱く痛く開けられなくなったのだ。あわてて洗面所に行き水を目をかけた。 おさまった。 5秒後また目が燃える。真っ赤になっている。 涙がドクドクと出る。 再び洗面所へ。 そんなことの繰り返しをつづけてどうやらおさまった。 しかしである。 わたしの左手の指先が唇にあたったらしい。 こんどは唇が燃えだした。 痛い。 熱い。 もうさんざんである。 どうにか我慢をして痛みがおさまるのを待った。 (えらいことだったわ…) ほっとしたわたしはお風呂に入ってさんざんだった夜のことは忘れようと思った。 ところがところがである。 「世界最強の辛さ」はそんなことでは許してくれなかった。 入浴後しばらくしたら、こんどは左手全体が熱く痛みだしたのだ。 (ええ、マジ?!) わたしは慌てたあまり、火傷に絶対的に効くエッセンシャルオイルのティーツリーを塗り込んだ。 だが、 火傷には効いても、辛さには効かなかった……。 痛い、熱い、痛い、熱い……。 ほんとうに散々な夜となった。 こうしてわたしは「世界最強の辛さ」の恐ろしさを知ったのだった。 さて、新刊紹介をしよう。 水上博子句集『ひとつ先まで』が出来上がった。著者の水上博子さんは「船団」(坪内稔典代表)に所属しておられ、跋文を寄せている坪内稔典氏と同じ歳であるとその跋文にある。 淡雪を来てハーレーダビッドソン 淡交の人と若宮おん祭 ジンベエ鮫と春のひと日のずる休み 神様のヨーヨー白い百日紅 朝涼や木綿豆腐を切り分けて などの句をあげて、坪内氏はこんな風に紹介する。 こうして挙げてみるとすぐに気づくが、いわゆる文語ではなく、口語を基調にした五七五である。また、淡雪とハーレーダビッドソンがその例だが、句作りの基本に取り合わせがある。これは私の姿勢や方法と同じである。つまり、博子はわが同行者なのである。 いや、同行者という言い方は堅くて強すぎる。若宮おん祭を一緒にみたり、ジンベエ鮫に会いに行ったり、時には木綿豆腐の冷奴で焼酎を飲む、そういう仲である。この人、実は同年の生まれであり、同級生的友情と信頼が私たちの淡交の基調をなしている。 「淡交」…、いいですねえ。まだお尻に青あざの残る青年諸君にはきっと分からないでしょう、この関係は。わたしは「淡交」ということのこの絶妙な関係が最近ようやく分かってきたような気がする。これは成熟を必要とするわけです。もたれ合わない関係とでも言ったらいいのだろうか……。心遣いも気合いもいる。「淡交」……えらく気にいってしまった。 囀りの加わり今朝のヨーグルト 落葉踏むくるぶしまでもあたたかく 岬へは花大根に案内され 青柿を蹴る淋しさを蹴っている 春や春おー電球が切れている かたつむり耳の中にも雨がふる 空仰ぐ椅子の置かれて秋の庭 青空の端にわたしとかたつむり さて、著者の水上博子さんと坪内さんは同級生であり俳句においては坪内さんは師でもある。お二人に共通することは、精神がつねに新陳代謝を繰り返しており澱がたまっていないことだ。軽々としてゴチック的ヒステリーからまったく自由である。 人生は放って置くというか、時々ブレーキを効かせないとおのずと重くなる。だから、淡交を意識したり、ずる休みをしたり、ひとつ先まで乗ったりすることが大事になる。 これは跋文のことば。そしてこちらは「あとがき」より。 NHK文化センター大阪の「坪内稔典俳句講座」に入門、その後「船団の会」に入会して十年余りになります。その間に生まれた句を、だんだんいとおしく思うようになりましたので、句集にまとめることにしました。 「だんだんいとおしく思うようになりました」ということばがすごくいい。「時間がかかったり」「時間をかけたり」するということは、私たちの仕事時間のなかではどちらかといえばマイナス要因だ。合理性が重視され無駄は嫌われる。だからこそ、俳句的生活はそうであって欲しくない……。 夏帽子ひとつ先まで乗ってみる 句集名となった作品だ。いいなあ……この余裕。わたしは「ひとつ先まで」乗ることがよくある。それは寝過したり、何かに夢中になっていたりして駅を降り損ねてしまうのだけれど、こんな風に「乗ってみる」ということはない。いつも大慌てで余裕なく、駅の階段をころげおちそうになりながら走っている。この句集『ひとつ先まで』を流れている時間がだから素晴らしいのだ。 椅子さがしに行こうと思う一月は これが、ハラペーニョ。 「淡交」の男友だち(と呼んでいいでしょう)から貰ったものだが、あいにく強烈な経験となったのであった。
by fragie777
| 2010-10-06 18:58
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Comments(1)
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