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8月31日(火)
唐招提寺の蓮の蕾にとまったしおからとんぼ。 猛暑のまま8月も終わろうとしている。 いったいこの暑さはいつまで続くのだろうか……。 昨夜藤本美和子さんより貰ったメールに、 暑きこといはずに涼しきことを言ふ という後藤比奈夫氏の句が引用してあって、「この余裕には恰幅があって、涼味満点です」と書かれていた。 さすが、後藤比奈夫先生、ヤラレタっていう感じだ。カッコいいなあ、とも思う。 「暑くてたまんないわねえ、やってられないわよ」などどぼやいているとニコニコと笑いながらこの句を爽やかに諳んじられたっていう感じ。俳句をやってる人はこういうところが心憎い。 新刊句集が出来上がる。 櫻井ゆかさんの第二句集『いつまでも』だ。帯文を小宅容義氏が寄せている。 「戦後という思くれを生涯背負い続けた稀有の作家、鈴木六林男に育てられた櫻井ゆかさん。普通なら、その延長戦上に個を咲かせるが彼女はむしろ、師の内なるものへ準ずることに俳句生命をかけているような気がしてならない。これはまた稀有だ。 煮凝りや次の扉のみえており 櫻井さんにあっては、「次」が問題だ。次の扉のさきにあるもの、そこにさまざまなものが見える。 次の間の母はいつしか蝶になる 次の世に片足届く苦よもぎ 次の間の声に応える良夜かな 稲光つぎのページを開きけり 「次」とは、いまここにあることからはじまって行く物語であり、それは此岸から彼岸へとつながっていくもののようにも思える。 うしろ髪鬼に掴まるのどかさよ そして「うしろ」が問題となる。 霾やうしろに道のつき来たる 花のあと幹のうしろに幹つづき 仏壇のうしろを冬の川とおる 墓のうしろから夏草のふき出せり 「次」への視点は「うしろ」へとも続き、生と死のあわいの輪郭をぼかし時間はとどまることがない。 句集名「いつまでも」という少しとらえどころのない言葉が作品を読むことによってふっとその輪郭がはっきりとなる。 睡蓮や女が先に立ちあがり 夕ぐれへ近づいてゆく素足かな 大寒の鏡をみがく我が見え ゆく秋のきぬとはだえのあわいかな 私にとって俳句は総てのものへの祈りに通じる。かなしみやいたみから解き放たれる祈りであり、周りの草や木や人への感謝の祈りでもある。そして何よりあの世との交感をも。いつまでも逝った人への思いは深い。 「あとがき」の言葉である。 六林男逝く人の重さで扉あき 蔵の扉のなんとおもたき花ぐもり 「扉」もまた問題なのである。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって杉山久子句集『鳥と歩く』より。 骨壺をはみだす骨やきりぎりす 張りつめた緊張のなかで、「りりり」に濁点を打ったようなきりぎりすの鳴き声によって、目の前にある骨と、自身のなかに紡ぐ故人の姿との距離に唐突に気づかされた感覚が生まれていると思う。「はみだす」という即物的な言葉で、情念から切り離し、骨を骨としてあっけらかんと見せている。 たしかにそうだと思う。 しかし、 「骨壺をはみだす骨」……、あんまり想像したくない。 そこへもってきて「きりぎりす」とは……。 杉山さん、こんなことまで俳句にしてしまうとは、ちょっとコワイな。 それをリアルに鑑賞する土肥さんも……。
by fragie777
| 2010-08-31 19:56
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