カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
8月22日(土)
夕方いつも行く美容院で髪をカットしていると、携帯電話が鳴った。 しかし、わたしの美容師さんはそんなことはおかまいなくさっきからずっとしゃべり続けている。 髪が完了して美容室を出るや、携帯をチェックすると俳人の石田郷子さんからだ。 すぐに電話をする。 「ああ、郷子です。ごめん、忙しい?」 「ううん、美容院にいたんで出られなかった。いま終ったところ。すげえ、美女が出来上がったはずなんだけど……」 「アハハハハ……」 石田郷子さんは、いまでは立派な俳人で、ふらんす堂通信の俳句の選者もお願いしているかたなのだが、わたしはまだ郷子さんが俳人でないころから存じあげていて、お父さまの石田勝彦先生のお嬢さんの時代からであるので、どうしても妹のような感じにおもえて、タメグチになってしまう。 郷子さんは笑うけど、すげえ美人になってもいいような時間を美容室で過ごしてきた。たかだがカットで、2時間以上もわたしの頭は自分の自由にならなかったのだ。シャンプーなんてわたしの髪の毛がほとんど抜けてしまうのではないかというくらいゴシゴシガシガシと洗われ、シャンプーが終って起き上がったときに、それはもう恐ろしかった。ひとりでやっている美容室なので、わたしはほぼ2時間以上、美容師さんの話を聴き続けたのだった。ところで今日のわたしの髪型のテーマは、 「帽子の似合う髪形にしてくださいな」 ということ。 彼はわたしのかぶってきた帽子をちらりとみて、 「帽子? ああハットね」 というや、すばらしいハサミさばきでカットをはじめた。(話好きではあるが腕はすこぶるよいのだ) 2時間以上、わたしの胸は期待にふくらんだ。 の 結果、 出来上りは、 ウーン、まっいいでしょ…。 多分、ほかの人間が見たら、「なあーんだ。いつもと変わらいなじゃん…」と言われそうだが、そりゃあなた分かってないっていうものよ。この頬にかけてのこの髪のライン、これがまえよりも鋭角的で、あごの線をきれいに帽子をかぶったときにややクールな女に見せるっていうもの…・。 ほら、ここよ、この髪の毛2、3本がねっ。 どこが違うって? わかんないの! もういいってことよ、わたしがいいと思ってんだから、もういいんだ。 なにしろ2時間もかかった頭なんですから…。 そう、郷子さん、こんどいちだんとヴァージョンアップした私をお見せしますね。 このブログを読んでくださっている皆さまにお見せできないのがとても残念。 (しかし、わたしの生活圏にいる人間は誰も反応しない。けっ、美意識のないヤツラめ。) 8月19日の神奈川新聞で、小川軽舟さんが、中岡毅雄さんの句集『啓示』と高柳克弘さんの句集『未踏』を取り上げている。タイトルは「現代映すリアリティー」。句集『啓示』については、鬱病に苦しむ中岡さんが、「俳句に救われようとする思いが切実だが、果たして中岡は救われたのか。」と問う。「鳥雲に入る休職のいつまでぞ」「まひるまの蓬を食べてねむりけり」「癒ゆる日はとほくてちかし夕櫻」などの作品をあげ、「私はむしろこれらの投げやりとも見える作品が好きだ」と書く。「石田波郷の『借命』の強靭な意志とは一線を画すある種の脱力感に、現代を映すリアリティーがある。」と。 句集『未踏』については、その著者高柳克弘さんは、29歳のいままだ大学院生であり、その先の将来の生活が保証されているわけではない、が、「『自分のために俳句があるのではなく、俳句のために自分がある。その感覚が心地いい』と言い切るフリーター世代の無頼とでも言えようか。」と書く。「つまみたる夏蝶トランプの暑さ」「紙の上のことばさみしやみやこどり」「洋梨とタイプライター日が昇る」。などの作品をあげ、「レトリックの間口を着実に広げながら、高柳は『俳句のための自分』を実践して倦むことを知らないようだ」とこの若い俳人に賛辞を惜しまない。 こちらは東京新聞などの地方新聞の千葉皓史さんによる俳句月評。8月15日付けのものだ。今井杏太郎さんの句集『風の吹くころ』についての論評である。タイトルは「無中心の十七音」。 「いくつもの船がこはれて春をはる」「春逝くか水のやうなる海を見て」などをあげ、「杏太郎の俳句は、こうしてものごとを流転の相のもとに捉えるのが常である」と書き、「て」や「は」を多用した杏太郎俳句の散文化ぎりぎりの俳句づくりのありようを千葉さんの師・石田勝彦が生前、「敬意と親しみ」を込めて、「低空飛行」と呼び、「コーナーワークの巧さ」を讃えていたと記している。そして、この「一見古風でゆるい杏太郎俳句」が現代の様相のもとにおかれたときにそこに権威的なるものからの身をかわし逃れるものとなって、「今日の無名の日常とその気分の総体を韻文に変換することが可能となる」と。 「みずうみの水が動いてゐて春に」「氷柱とは水にこはれてゆくやうな」。「無中心的な文体の中で、ものごとの順序は倒置され、距離は相対化される。原因と結果は現象へ還元され、意味は無化され、夢と現実は行き来される。その結果というべきか、今井杏太郎句集には代表句が見あたらない。句集もまた無中心的なのである。」と分析してみせる。
by fragie777
| 2009-08-22 22:27
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||