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7月10日(金)
夕方、私用で川崎まで車をとばす。 川を渡ったときの夕暮れの空。 今週のはじめに思わせぶりなブログを書いて、なんとか自分をおいこんではみたものの、やっぱり今週末ぎりぎりとなってしまった。 ホームページのトップに広告するのがやっとで、各結社などへのご挨拶状は遅れてしまっているが、 田中裕明賞の創設 を発表した。 この賞を創設するに至る過程については、「ふらんす堂通信121号」にても書くつもりではあるが、およそ2009年がはじまった年頭には賞を設定するなどと言うことは考えていなかった。もちろん、これまで、賞を設定したらどうかという話をいただかなかったわけではない。しかしながら、そういう話にもいっさい心がうごくということはなかった。それは、つねにわたしは本作りをする人間であり、賞などというだいそれたものをふらんす堂が人に与えるなどということはおこがましく、ふらんす堂がそういう権威的な仕事をするべきではない、と考えていたからだ。というか、そういうことは本来あまり好きじゃないのだ。いろんな人の求めに応じて、喜んでもらえるような本をつくること、私たちの仕事はそれにつきる、そう思って今日まで仕事をしてきたのだ。 ことしの3月だっただろうか…、わたしは俳人の綾部仁喜氏のお見舞いに八王子まで行った。その時のことである。声帯を失った綾部氏と筆談でさまざまなお話をしているときに、「ふらんす堂は賞を設けないのか」というメモを渡された。わたしは一瞬ことばにつまった…。(やばいな…。どう申し上げようか…)すると再びメモを渡された。「田中裕明賞を…」とそこには書かれていた。「田中裕明賞」まったく考えていなかったことだった。不意打ちをされたような気持ちだった。およそ考えていなかった賞だったけれど、大きくわたしの心は動いたのだ。俳壇のあらゆる権威からは遠いところで爽やかに存在した田中裕明さんの笑顔が浮かんできた。「若い人のための賞をね。田中裕明賞はふらんす堂の仕事だよ」と綾部先生はニコニコされながら、ふたたびメモを下さる。ご自身は闘病の身でありながら、これからの俳句の未来を考えておられる綾部先生のお気持ちがそこにはあった。(ああ、田中裕明賞なら…。)わたしは俄然やる気をだすことにしたのである。 「ふらんす堂の立派な仕事だよ」とおっしゃってくださった綾部先生のお気持ちもうれしかったし、俳人田中裕明を顕彰することになればという思いもおこり、またこれまでふらんす堂がお世話になってきた俳句の世界になにほどかのお返しができれば、それもまたうれしいことである。 選考委員に俳人の方たちをお願いするにあたっては、できるだけ田中裕明さんの年齢に近い方をえらび、厳正な選考をしてくださる方にお願いしたつもりである。皆さんひとつ返事でお引き受けくださった。これはあとで気づいたのであるが、選考委員のかたがたは、2006年の9月に横浜で行われた「田中裕明をしのぶ会」に吟行会から参加してくださった方々であった。田中さんとはいろんな形で深いご縁のあった方々である。また、田中裕明夫人である森賀まりさんも快くご賛同くださったことはありがたかった。田中裕明を愛し、田中裕明を師とあおぐ方々の思いを裏切らないような「田中裕明賞」でありつづけることもまた大切なことである。 「田中裕明賞」のことを綾部先生に示唆されてからずっと考えつづけてきたそれを今日やっと発表することができた。 そしてわたしはとても緊張している。
by fragie777
| 2009-07-10 22:46
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