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3月13日(金)
こんな郵便ポストって最近見かけませんよね。 さて、「永田青嵐句集」であるが、今日もおもしろいエピソードをひとつ。 今日は解説を書かれた編者のわたなべじゅんこさんの文章より。 「『句集などは自分の死んだ後に誰かが出してくれればそれでよい』 新樹社から出版された青嵐唯一の句集『永田青嵐句集』は青嵐の死後十五年経って一つの節目として昭和三十三年に子息亮一氏によってまとめられた。その全容は口絵に亮一氏の描いた青嵐像(油絵)と青嵐の残した短冊類、高濱虚子「序」、亮一「序」、俳句集と俳句随筆とかなりボリュームがある。」 これは解説の冒頭の部分であるが、なにゆえ青嵐が生前句集を出すことを拒んだか、それについて子息の亮一氏の句集に寄せた序文に興味ふかいエピソードがある。 「第二次東京市長時代に米国の喜劇俳優で最高の芸術家と言われるチャップリン氏が日本を訪問してきた。チャップリンと青嵐はウマが合い、昼も夜も一日を通じて語り合った。文学の話、政治の話、哲学の話など。(中略)青嵐は 「あなたの最も自信のある作品はどれですか」と訊ねると即座に 「ザ・ラスト・ワン(最後のもの)」と答えた。 この「ザ・ラスト・ワン」の一語に青嵐は非常な共鳴を覚え「芸術家はすべからくこうなくてはならぬ」といつも語っていた。こうして終に青嵐は自ら句集を出さずに終わったのである。」 これも解説に書かれているものであるが、一俳人がチャップリンの影響をかくまで受けているとは面白い。 また、青嵐は東京市長のときに関東大震災に遭っている。そのときの作品を「震災雑詠」として「ホトトギス」誌上に発表している。先ほどお電話をくださった深見けん二氏は、「永田青嵐というと私はこの震災の作品をすぐに思いうかべます」とおっしゃっていた。 して、青嵐のラストワンの俳句は、「病気も進んで苦痛も激しく死期も迫った9月1日病床で自分の生涯を通じて、最も深い印象を受けた第1次東京市長時代の関東大震災20周年を迎え、 震災記我に古りゆく月日かな と小さな声で母と私の前でささやいたものが之に当る。」 と亮一氏の序文にある。 震災を東京市長として体験した青嵐は、「数万の屍を集めて、格別の法要を営まず、夜中一週間に亘り之を焼き尽くしたるは、洵に止むを得ざる処置なりしと云へど、心中に実に痛苦に堪えざりし所なり」とその随筆に記しているのである。一個人としての震災体験以上の苦しみが伴ったことだろう。 「俳句αあるふぁ」4・5月号が送られてくる。 高柳克弘さんの『芭蕉の一句が紹介されている。「句の配列は、現代人の生活実感に沿うよう工夫されている。芭蕉が季語の新し味を捉えるために心をくだくさま、時間表現や感情表現のすばらしさなどを発見しながら作品を読み解く姿に好感がもてる」とある。 この「俳句αあるふぁ」の特集が興味ふかい。「人間探求派の軌跡」と題して俳句史に名を連ねる俳人たちの写真が豊富に掲載されているがなかでも根岸の「子規庵」に結集した写真は錚錚たる俳人がずらりと勢ぞろいしている。波郷も楸邨も丸メガネをかけているのが時代を感じさせる。そのなかでとりわけ印象的だったのは高屋窓秋の若き姿である。スマートで現代風でカッコいいのだ。ちょっとそこだけ空気がちがう…。わたしはお歳を召されて上品な老紳士の高屋氏しか存じ上げないので、その若々しいモダンに驚いた。そして思わず、鴇田智哉さんにメールをしてしまったのだ。鴇田さんはいまふらんす堂の日替わりサイトで「窓秋の一句」を連載してくださっている。「カッコいいからぜひご覧になって…」って。まったくわたしときたら相変わらずミーハーで、鴇田さん、ごめんなさい。
by fragie777
| 2009-03-13 19:08
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